若き日の家康は、戦いの日々。
家康はここから三方原の戦いだけでなく、姉川の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いに、家臣とともに浜松城から出陣していました。
浜松城天守の博物館では、
- 若き日の家康と浜松城
- 浜松城の歴史
- 浜松城周辺の発掘調査からわかったこと
- 展望台
が紹介されています。
博物館で紹介されていたことを少しだけ紹介。博物館に行けば、もっと詳しくいろいろなことがわかります。
天守博物館
天守の内部は、ちょっとした博物館になっています。
入館料は大人200円。
浜松城公園に車を停めている場合、受付に駐車券を渡すと、60分間駐車料金が無料になります。
中に入ると、若き日の家康人形がお出迎え





小さな博物館なので、ゆっくり見たとしても1時間もかかりません。20分もあればじゅうぶん見て回れます。
浜松城の変遷
浜松城は、今川時代の曳馬城から今の場所に家康が城を移し、名を「浜松城」に改めたことから浜松城の歴史は始まります。
浜松城は家康が築城しましたが、その前身となる曳馬城の築城者と築城年代は正確には分かっていません。
浜松市公式チャンネルには、家康時代の浜松城をCGで再現した動画があります
浜松城の天守は、徳川家康が関東に移封された後、豊臣系大名の堀尾吉晴が入城して改築した時に建築されたものです。
家康の頃は、まだ天守も石垣もない、土の城の時代でした。



今の城の姿とはぜんぜん違う!



戦国時代の城と、平和な時代の近世城郭は全くの別物だよ。その間に築城技術の発展もあったしね。
浜松城の発掘調査
浜松城の発掘調査は、現在進行系で続いています。
天守博物館では、浜松城だけでなく、城下町の発掘調査による出土品の一部が展示や、堀の発掘調査によって明らかになったことなどが、パネル展示されています。
発掘状況については、浜松市公式サイトで公開されています。
天守で発見された井戸
天守再建に先立つ発掘調査で、地下に井戸があったことが発見されました。
文献では、天守に井戸が存在していたことは示唆されていなかったため、大発見だったのではないでしょうか。


発見された井戸



井戸の中って、たいていお金が放り込まれているよね
家康公のご利益があるのなら、お賽銭投げます!
籠城戦になった場合のことを考え、天守に井戸があることは重要なのですが、以外にも、天守に井戸がある城は少ないです。
展望台
天守の最上階は展望台になっています。








- 東
-
広いグランドは二の丸跡地。そのすぐ向こうに、曳馬城(引馬城)跡。左の橋に富士山。
- 南
-
クレーンの左下にある市立図書館は出丸跡。はるか向こうに太平洋。
- 西
-
気が生い茂っている場所は作差曲輪跡。人の名前がついた曲輪は珍しい。はるか向こうに浜名湖。
- 北
-
コンコルドホテルのすぐ脇に、二俣城と鳥羽山城。三方原地区も見えなくもない。
今の天守は当時の2/3の大きさ。5階建ての天守だった頃は、遠くの景色がもっとはっきりと見渡せていたのかもしれません。



堀尾吉晴はここから徳川方の動きを監視していたのだろうか……?
徳川家康時代の浜松城に、天守はまだありません。
\ 浜松城を見下ろす絶景のロケーションにあるホテル /
天守1階の土産物売り場
天守1階の出口には、土産物売り場があります。
通常の御城印の他、限定御城印が販売されています。



私が行った時は、うなぎの御城印が販売されていたよ。


葵の御紋のカードケースも、購入しようか迷いました。
でも結局買ったのは、


浜松城の御城印と御城印帳



限定ではなく、普通のが良い
ついでに出世の願掛けの意味で、浜松城の御城印帳も買っちゃいました。


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本当はすごかった浜松城の天守
浜松城の天守閣は、昭和34年の春、市民の努力により旧天守閣跡(天守台の上)に新天守閣が再建されました。
浜松城の天守は、鯱瓦が発見されていることから、安土桃山時代に天守があったことは確からしいのですが、残念ながらどの文献にも登場していません。
かなり早い段階で瓦葺きの建物がなくなったことが分かっており、その時期に天守も失われたと考えられています。
今の浜松城の天守は、想像上の天守です。
浜松城の天守をよく見てみると、何かがおかしいことに気が付きませんか?
一般的に、天守は天守台いっぱいに建てられます。しかし、現在の浜松城の天守は……


石落としが一箇所しかないのもおかしいし、どんな姿だったのか、想像力を働かせてみてください!



天守は本来天守台いっぱいに建てられるものですが、予算の都合で小さな天守になってしまいました。
本来ならば全国トップ5に入る大きさ
今の天守は天守台の2/3しか使用していないので、本来ならば床面積は今の約2倍、体積は約3倍くらいあったはずです。
浜松城の天守を建てた堀尾吉晴が関ケ原の合戦後、栄転して建てたのが現存天守の松江城。2番めに大きい現存天守です。


天守台には付櫓のための台座が突き出ているため、松江城とほぼ同じ特徴だったと考えられおり、天守台の面積から考える天守の大きさは、松本城とほぼ同じ大きさだったのではないかと考えられています。
堀尾吉晴は、石高の割に大きな天守を好んで建てていました。同僚の山内一豊の掛川城や高知城は石高の割に小さな天守です。
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