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遠江の城– category –

静岡県西部の遠江。

遠江は室町時代、守護大名斯波氏の支配下にありましたが、実質的には守護も守護代も居住していない国でした。そのため早くから国人領主が台頭。その後、徐々に駿河の今川氏の傘下にはいります。

今川義元亡き後は、武田氏と徳川氏が遠江支配を巡って激しい攻防を繰り返していたため、多くの城が築かれました。

遠江の城の歴史は、主に3つの時代に分けられます。

  1. 室町時代、守護大名斯波しば氏と駿河の守護大名今川氏が争っていた時代
  2. 桶狭間の戦い後、今川氏・徳川氏・武田氏が遠江支配を争っていた時代
  3. 徳川家康が関東に移封された後の豊臣系大名の時代

斯波氏と今川氏が争っていた時代の城(応仁の乱後半)

遠江の守護斯波氏は、遠江だけでなく、越前と尾張の守護も兼ねていました。守護代として越前には甲斐氏、終わりには織田氏を置いていましたが、遠江は甲斐氏が兼ねている状態。実質的に守護がいない状態になっていました。

このような状況で、遠江は国人領主が力を持ち、群雄割拠する状態でした。

そこに隣国駿河の今川氏が東軍として進行を開始。敵対する国人に対しては徹底的に攻め滅ぼしました(例:勝間田氏、横地氏)が、家臣となった国人に対しては領地支配を保証しました(例:井伊氏、飯尾氏)。

西軍斯波氏の遠江を撹乱すべし!

という命令を受けていたからだとか。

また、要衝に城を築き、家臣を城主として置いています。

桶狭間の戦い後の城

桶狭間の戦いで今川義元が亡くなると、遠江の国人たちはそれほど今川氏とは結びつきが強くなかったため、混乱状態になりました(遠州忩劇)。

徳川家康は三河を平定した後、遠江に侵攻開始。一方で甲斐の武田氏も義元亡き後の今川領を狙って侵攻を開始します。

それゆえ、遠江の城の多くは徳川氏vs.武田氏の争いに巻き込まれている城が数多く存在します。

徳川家康関東移封後の城

1590年に徳川家康が関東に移封されると、遠江には豊臣系大名が入城し、中世城郭だった城を近世城郭へと改築しました。

遠江の城たち

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