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小山城(遠江)の見どころと歴史、御城印を紹介!―武田氏の遠江侵攻拠点

大井川の西岸、河口近くに建つ小山城(遠江)は、武田信玄が駿河を制圧した後、遠江侵攻の第一歩として築いた城で、境目の城。

牧之原台地南東側、湯日川に面した舌状台地の小尾根「能満寺山」にあります。大井川流域から駿河湾までを眺めることができ、まさに海の交通の監視に適した場所です。

城地平山城
天守の種類模擬天守
城郭構成連郭式
最初の城の築城者馬場信春?
最初の城の築城年1571

展望台として使用されている模擬天守の内部には、武田氏ゆかりの品々が展示されていました。

武田氏時代、小山城は高天神城への兵站補給ルート。諏訪原城落城後は東海道を徳川氏に抑えられてしまったため、海岸ルートを使用した補給ルートとして重要視されました。

目次

小山城の構成と見どころ

当時の海岸線は現在よりもっと内陸部にありました。大井川の下流は葦の生い茂る湿地帯で、湿地帯にも守られた城でした。

能満寺

能満寺

小山城は能満寺公園の一画として整備されています。能満寺そのものも、趣のある寺です。

小山城の主郭へは、この能満寺を通り抜けていきます。

天然記念物のソテツ

能満寺の境内には、日本三大ソテツの一つで、天然記念物に指定されている見事なソテツがあります。

安倍晴明が中国から持ち帰って植えたといわれています。

城主 城山塔子

このソテツにも、家康にまつわる伝説があるよ。

小山城へ行く階段

小山城展望台へは、階段の先にある男坂の階段あるいは女坂の階段を登って向かいます。

  • 男坂:急勾配の石段
  • 女坂:緩勾配の石段

男坂は急勾配な上に段幅も狭いです。

城主 城山塔子

私が行った時、男坂は崩壊の危険があるとして、通行禁止になっていました。

丸馬出

武田流築城術の代表とも言える丸馬出と三日月堀は、復元されたもの。

小山城展望台から見下ろすことで、丸馬出がどういうものであるか、よくわかります。

この丸馬出は諸国古城の絵図をもとに復元されたものですが、発掘調査では確認されていません

城主 城山塔子

あったのかなかったのか、どっちなんだよ!

橋がかかっている堀は、そのまま竪堀となって山を下っています。

小山城展望台

本来小山城には天守はありません。

もともと天守のなかった城に、展望台として犬山城の天守を模して建てられたのが現在の小山城の天守。ゆえに模擬天守です。

模擬天守の小山城展望台

小山城跡には、天守の形をした展望台が建てられています。建物の内部には当時の小山城の想像模型、武田氏ゆかりの品々が展示されています。

日本刀の反りは、何度見ても美しい

模型から、城の北側と東側は大井川、南側は湿地帯、尾根続きの西側は幾重もの堀で防御力を高めていたことがわかります。

天守が建てられている場所は、元々物見台があったとされている所であったため、眺望は素晴らしいです。

城主 城山塔子

昔は城のすぐ下が大井川だった!

木々に覆われて何も見えませんが、この先には大井川の流れがあるはず……。城の東側は、改変により原型をとどめていないそうです。

海が見えます。

西

西側は尾根続き。すぐ下に道が見えます。

小山城跡全体を上から眺めることができます。

三重堀

小山城の三重堀
小山城の三重堀

城の弱点となる西側は、堀と丸馬出で守り、その外側はさらに三重の堀切で防御力を高めていました。三の曲輪に近い方から、内堀、中堀、外堀と呼ばれます。

  • 内堀:幅7m、土塁を伴う
  • 中堀:幅9m、土塁を伴う
  • 外堀:幅10m、土塁なし

三重堀は直線ではなく円弧を描いており、丸馬出しの機能を持ち合わせていました。

徳川軍に攻められて小山城が落城する際、武田方の婦女子たちがこの堀に身を投げたと言われています。

小山城の御城印のある場所

小山城の御城印は小山城展望台の入場券売り場、および能満寺公園駐車場にある土産物屋で販売されています。

小山城の御城印

小山城の御城印

小山城の御城印は赤い札で武田氏の家紋があしらわれています。

城主 城山塔子

この赤色は、赤備えをイメージしたものなのでしょうか?

赤い御城印も良いね

小山城の歴史

かつての小山城想像模型

小山城があったあたりは、今川家が築いたとされる岩崎砦がありました。この岩崎砦は、今川氏から井伊氏に与えられていたとする史料があるようです。

旧今川領を大井川を挟んで東側の駿河を武田氏、西側の遠江を徳川氏が割譲していました。

徳川家康と武田信玄が密約を交わし、今川領を二分したと言われていますが、「密約」について徳川方の史料には登場しますが、武田方の史料には登場していません。

武田信玄

「密約?」そんなの知らんわ。遠江を取りに行くぞ

武田氏の遠江拠点として

今川氏没落後、岩崎砦は徳川氏のものになります。武田信玄はこれをおばいますが、徳川家康に奪還されます。

元亀2年(1571)

武田信玄は徳川方であった岩崎砦を2万3千の兵でもって再度攻略。遠江侵攻、高天神城攻略の拠点とすべく改修し、小山城としました。

天正3年(1575)

長篠・設楽原の戦い後、諏訪原城も家康に破れて奪われ、徳川氏は東海道を通行できなくなってしまいました。そのため、高天神城への補給は海岸沿いの迂回ルートを用いざるを得なくなり、その兵站基地として小山城は重要視されました。

家康が高天神城や田中城に攻勢を仕掛けるたびに勝頼は駿河・遠江に出陣し、家康を牽制しながら小山城を中継して高天神城へ兵站を運び入れを行っています。

天正9年(1581)

3月末、高天神城落城。残された小山城は、最前線基地としての緊張が高まります。6月に持舟城から出動した朝比奈軍を徳川軍が撃破。田中城や持舟城との補給や連絡ができなくなり、小山城は孤立します。

天正10年(1582)2月16日

戦線が崩壊し、軍勢が退去。自落します。

城主 城山塔子

意外と持ちこたえている

小山城へのアクセス

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