井伊谷城は、後の徳川四天王の一人であり、彦根藩藩祖井伊直政につながる井伊家発祥の城と知られる場所。
2017年のNHK大河ドラマの題材となった『おんな城主直虎』の居城としても知られる城です。

小さな地方国人領主の城かもしれませんが、その歴史は古く平安時代に遡ることができるほど由緒正しき家系。
戦国時代は今川、武田、徳川の勢力争いに巻き込まれ、一時は御家断絶の危機にありましたが、井伊直虎が嫡男虎松(後の井伊直政)のをうまく隠したことで存続。
井伊直政がその才覚を徳川家康に認められたことにより、井伊家は再興どころか、幕末まで存続する大名へと成長。現代までその家系は続いています。
本記事では、そんな井伊家発症の城を訪れ、その魅力に迫ります。
城地 | 山城 |
---|---|
城郭構成 | 単郭式 |
最初の城の築城者 | 井伊共保 |
城の築城年代 | 1032年(万寿9年)と伝わるが、詳細は不明 |

独断と偏見による浜松城の魅力
- 井伊氏発祥の城
- おんな城主井伊直虎の居城
- 近くに駐車場があり、車があれば行きやすい
本記事では、井伊谷城の見どころと歴史、御城印を紹介します。
井伊谷城の見どころ
井伊谷城は現在、城山公園として整備されており、訪れやすい城となっています。


浜松市引佐支所の裏に、城への入口があります。
頂上まで310m。急な坂が続くとありますが、そもそも山城なので、急坂は覚悟の上。
いざ!参らん!
城への道は実際に急坂でしたが、舗装されているので歩きやすい道です。


城への道を登っていくと、途中にお休みどころが2箇所あありました。



休むほどではないけれど、ちょっと休憩。




私が行った日は冬の寒い日でしたが、夏の暑い日だった場合、木陰の休憩所の存在はありがたいですね。
城門


井伊谷城大手門
一見すると大手門に見えないかもしれませんが、シダの茂みに隠れて大手門の札が立っているので、ココが大手門の場所だとわかります。
井伊谷城搦手門
大手門に比べ、搦手門は札がよく分かる場所にあります。


本丸


井伊谷城本丸南側は、城からの景色を楽しめるよう木が伐採されており、遠く浜名湖まで見渡せるようになっています。







それほど比高のある城ではないですが、意外と遠くまで見渡せるものですね。
御所の丸


本丸の中で、一段高くなった場所は御所の丸と呼ばれています。



本丸の中に三角点があって、なぜかテンション上がりました。
井の宮石陵


井の宮石陵
大きな石がゴロゴロと転がっている場所は、「井の宮石陵」。



ここがどういう場所なのか、説明がなかったのでわかりません。
三嶽城(三岳城)は見えるかな?


井伊谷城の北北東には、井伊家の詰城である三岳城があります。
南側とは異なり、北側は伐採されていないので、眺めがあまり良くありません。



こちらの方角に三岳城があるという看板はありますが、「これかな?」


井伊谷城の御城印
井伊谷城の御城印は、すぐ近くにある3件の和菓子屋さんで購入できます。そのうちの1件、「すぎや」で御城印の購入しました。


すぎやでは、おばあちゃんが店番をしていました。
井伊三城



御城印かい?それなら井伊三城(井伊谷城、井平城、三嶽城)セットがおすすめだよ、どうだい?
最初は井伊谷城の御城印のみを購入する予定でした。



購入するからには井平城と三嶽城にも行かないといけなくなるじゃないですか。
行くつもりはなかったので購入を戸惑ってしまいましたが、結局、おばあちゃんに勧められるままに三城セットを購入してしまいました。


井伊谷城の御城印には、井伊氏のほか、小野氏と近藤氏の家紋もあしらわれています。
お店の名物「みそまん」
このお店の名物はみそまん。
私が行った時、残念ながらみそまんは売り切れていましたが。おばあちゃんおすすめのお菓子を2つほど購入して帰りました。
いつも食べている春華堂のみそまんとどう違うのか、食べ比べてみたかったですね。





三岳城はここらか車で10分ぐらいだよ。今日は天気が良いから行っておいで。あそこは天気が良いときでないと行けないからね。
というお店のおばあちゃんのアドバイスに従って、この後三岳城に登りました。



三岳城に登り、最高の景色を眺めながら食べるおまんじゅうは、格別の美味しさがありました。
井伊谷城の歴史


井伊氏初代井伊共保が万寿9年(1032年)に井伊谷城を建てたと言われていますが、詳細は不明。
井伊氏は代々井伊谷の地を治め、遠江の有力一族として成長しました。
戦国時代以前は三岳城を井伊城と呼んでたこともあり、三岳城のことを言っているのか、井伊谷城のことを言っているのか、本当のところは不明。
しかし井伊谷城は井伊氏の平時の居館であり、三岳城は井伊氏の本城。大平城、奥山城、千頭峰城は支城。
南北朝時代
南北朝時代、井伊氏が歴史の表舞台に登場します。
浜松庄、都田御厨、気賀庄は南朝方の所領であり、在地領主井伊氏も南朝方として戦いました。


宗良親王(1311-1385)
後醍醐天皇の皇子。南朝の征夷大将軍。
建武政権の崩壊後、南朝を支え続けました。また、歌人としても知られ、『新葉和歌集』の編纂にも関わっています。宗良親王は、南北朝時代の動乱の中で南朝の象徴として活動し、その生涯を終えました。
この時、三岳城は落城しました。
戦国時代
駿河の今川氏が台頭し、遠江に侵攻を開始。井伊氏も巻き込まれていきます。
永正10年(1513)、今川軍の総攻撃により、三岳城落城。遠江守護であった斯波義達は尾張へと逃げ帰ります。
実はこの時、井伊氏の本流は滅ぼされています。本流は滅ぼされてしまいましたが、今川氏により傍流であった井伊直平が井伊氏惣領家に取り立てられました。



井伊直平から始まる家系図が多いのは、ここで家系が変わっているからだと思っています。
今川氏により惣領家となると同時に、今川家臣になっています。
井伊家の危機
桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、遠江は遠州忩劇と呼ばれる混乱状態になりました。
- 永禄3年(1560):桶狭間の戦い
-
桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれました。その時、井伊直平の孫で井伊家当主である井伊直盛は殿を務めており、直盛もまた桶狭間で散りました。
その後、直平の次男の嫡男である直親が井伊家23代の当主に就きました。
- 永禄5年(1563)
-
小野政直の讒言により、井伊直親が朝比奈泰朝により掛川で殺害され、直平も急死。
あわせて読みたい掛川城の見どころと御城印・スタンプを紹介!―二の丸御殿が現存する城 東遠江の中心地であり、東海道を押さえる位置、小高い丘陵の南西端にある平山城。 駿府城を逐われた今川氏真が逃げ込んだ城であり、山内一豊が中世城郭から近世城郭へと…井伊家のピンチに直盛の娘が直虎を名乗り、なんとか井伊家を繋げます。
- 永禄11年(1568)
-
小野道好(政次とも)の専横により、井伊谷城を奪われてしまいます。しかし武田信玄の駿河侵攻に合わせて徳川家康が遠江に侵攻し、徳川家に寝返った井伊谷三人衆(鈴木重時、近藤康用、菅沼忠久)の手引きにより、家康は井伊谷城を落とします。
徳川家康公小野道好は讒言の罪で処刑な。
小野道好(政次)没年:1569井伊家に家老として仕えた人物。
小野道好は井伊直親が徳川に内通して今川に対して謀反を起こそうとしていると訴えたため、直親が掛川で暗殺されるに至ります。
虎松(後の井伊直政)の命も狙ったが、家康が侵攻してくると逃亡。わずか1ヶ月の井伊谷城主に終わりました。
奸臣と言われていましたが、最近の研究では評価が見直されています。
城主 城山塔子大河ドラマ『おんな城主直虎』では、井伊家を守るための行動だったと表現されていましたね。高橋一生さんが演じていました。
- 元亀元年(1570):三方ヶ原の戦い
-
遠江に侵攻してきた武田軍により、井伊谷城下は焼き払われてしまいます。が、これまた井伊谷三人衆の力を借りて、家康は井伊谷を取り返します。


井伊家復興
- 天正3年(1757)
-
出家していた井伊虎松(後の井伊直政)が還俗して家康に仕え、井伊万千代と名乗ります。この時、井伊家の旧領である井伊谷領が、家康により下賜され、先祖伝来の井伊領が復活します。
井伊直政やっと私が登場する時代になったか
井伊直政の才覚により、井伊家は彦根藩主となり、代々の当主が江戸幕府の要職に就いていったのは有名な話。
井伊家は現在も続いています。
井伊谷城へのアクセス
地図を見て分かる通り、城があるのは浜松市引佐支所の裏です。
引佐町多目的研修センターや図書館の駐車場が利用可能なので、車で訪れるにはひじょうに行きやすい場所です。
大河ドラマ『おんな城主直虎』が放送が決定された時、浜松市により道が整備されたため、たいへん行きやすくなりました。



城まで徒歩15分くらいかな。15分だけど、山城らしく急坂です。
\ 交通の便が悪いので、車で行くのがおすすめです /




コメント