諏訪原城は、武田勝頼が久野城・掛川城を牽制し、高天神城攻略のための陣城として築いた城。高天神城が武田氏の手に落ちた後は、高天神城への兵站基地として使用されました。
諏訪原城を徳川家康が奪い取ると、諏訪原城は今度は駿河侵攻のための前線基地として改修されました。
わしが武田から奪い取った後、一年だけ今川氏真に城主をやらせてみた城じゃ
別称 | 扇城、牧野城 |
城地 | 山城 |
最初の城の築城者 | 武田勝頼 |
築城年代 | 1573 |
牧之原台地の突端を利用した城で、比高は120m。
侵食により起伏の激しい複雑な地形に経っており、三方を断崖に守られています。
大井川方面から見ると山城ですが、牧之原台地側からみると平城とも見えます。「山城」としましたが、「丘城」に分類されることもあります。
武田勝頼は、高天神城攻めのための兵站基地として河川と連携した水運を確保した場所です。
独断と偏見による諏訪原城の魅力
- 武田式築城術と言われる丸馬出がよく残る
- 高天神城攻略のために武田勝頼によって築城
- 徳川氏の城になったあと、一時的に今川氏真が城主を務める
本記事では、諏訪原城の見どころと歴史を紹介します。
諏訪原城の構成と見どころ
諏訪原城は台地につながった西側の防御力を高めるために、丸馬出が造られ、全体として扇形に広がる城になっています。そのため、「扇城」とも呼ばれています。
城の弱点をカバーするために丸馬出が造られているだけでなく、さらに馬出を重ねている重ね馬出が見られるところが、諏訪原城の大きな特徴!
寒い冬の早朝に諏訪原城に行ってきました。
馬出群
諏訪原城の特徴は、台地側の防備を固めるために築かれた大小7つもの丸馬出。
大手馬出と二の曲輪中馬出、二の曲輪大手馬出は規模の大きい丸馬出。
大手馬出は林の中になっていますが、二の曲輪中馬出しは伐採されて整備されているため、巨大な丸馬出の姿を体感しやすくなっています。
以前は森の中に城があるような状態だったんだけど、ここらの木を伐採して整備したから、堀も馬出もよく見えるようになったのよ。
写真ではなかなか伝わりませんが、二の曲輪の面積は大きく、堀も深くて広く、巨大です。
二の曲輪北馬出
二の曲輪北馬出は、二の曲輪中馬出に重ねられた重馬出、
平成29年3月に復元された徳川氏時代の城門(薬医門)があります。
この薬医門だけが、諏訪原城で復元された唯一の建物です。
訪れた日は天気がよく、空気も澄んでいたので、富士山が見えました。
二の曲輪東馬出
城の南東端には小さな丸馬出が3つ(二の曲輪内馬出・二の曲輪南馬出、二の曲輪東馬出)あります。
鉄塔が邪魔ですが、東馬出からの見晴らしは良かったですね。
発掘調査では土塁の痕跡は見られず、門礎石、鉄砲玉、銅製品が出土されているそう。
曲輪
諏訪原城の曲輪は、本曲輪・二の曲輪・大手曲輪・出曲輪からなっており、本曲輪と二の曲輪が見やすく散策しやすいように整備されています。
大手曲輪はほぼ茶畑になっていました。
二の曲輪
本曲輪を守るように扇状に広がる二の曲輪。
二の曲輪中馬出から土橋を渡って出た先では、城門の礎石が発掘調査により確認されています。
土橋から出たところより北は平坦ですが、南は写真のように凸凹していました。凸部分は仕切り土塁です。
中心部は雑草でふかふかしてて、とても歩きにくかったです。
本曲輪
二の曲輪と本曲輪の間には内堀があり、土橋でつながっています。
本曲輪からは、焼土を挟んで2層の遺構面が見つかっており、下層は武田氏時代、上層は徳川時代と考えられています。
本曲輪からは、武田氏時代の建物の基礎が見つかっています。
諏訪神社
諏訪原城の名前の由来ともなっている諏訪大明神を祀る諏訪神社。
武田勝頼の母は諏訪御料人で、諏訪氏の流れ。武田勝頼は本来ならば、諏訪氏を継ぐ予定だった人物。諏訪氏は諏訪神社上社大祝を世襲する家系なので、その関係でここに諏訪神社が祀られているのでしょう。
諏訪神社の存在は、ここが武田勝頼の城だったということを示す証(なのかもしれません)。
諏訪原城の御城印とスタンプがある場所
諏訪原城の御城印は、駐車場のところにある諏訪原城ビジターセンターで販売されています。
諏訪原城の御城印
諏訪原城の御城印は、
- 武田氏の家紋
- 今川氏の家紋
- 徳川氏の家紋
があしらわれています。
築城したのは武田氏。徳川氏が奪い、徳川氏の城になりました。徳川家康に庇護を求めた今川氏真が一時的に城主になっていることから、今川氏の家紋もあしらわれています。
有力大名の3つの家紋は、ここが境目の城で激しい攻防戦が繰り広げられていたことを示しているのでしょう。
諏訪原城のスタンプ
諏訪原城のスタンプは、諏訪原城ビジターセンター内にもありますが、屋外の大手門南外堀近くのパンフレット置き場にもあります。
諏訪原城はNo.146の続日本100名城。
スタンプのデザインは、諏訪原城に特徴的な巨大な丸馬出。
10:00~16:00開館、月曜定休、年末年始休み
諏訪原城の歴史が紹介されています。
諏訪原城での武田軍vs.徳川軍の戦いをイメージしたジオラマ展示が面白い!
1月の寒い時期に行ったのですが、朝早くに着いてしまい(7:00)、先に城を散策したもののビジターセンターが開くまでまだまだ時間があり、車の中で待っていました。
9:00頃に来られたスタッフの方が
寒いでしょう。今開けるから、ちょっと待っててね
と、営業開始の10時にはまだ全然なっていないのに、開けてくれました。スタッフさん優しい!
早すぎてスタッフの方には申し訳なかったなと思いつつも、いろいろと諏訪原城の話をお伺いすることができて、良かったです。
諏訪原城の歴史
諏訪原城は武田氏の家臣馬場信房(信陽)により築城されたと伝わっています。
なぜだろう…丸い城の形は、稜堡式城郭を連想させる……
武田氏時代の諏訪原城
発掘調査では、本曲輪、二の曲輪東内馬出、二の曲輪東馬出からは武田氏時代の遺構が見つかっていますが、それ以外の場所からは見つかっていません。
城の半分以上がわしの時代の改修じゃ!
天正3年(1575)6~8月
5月、長篠・設楽原の戦いに勝利した家康は、武田軍の手に落ちた遠江の城の奪還に動き出します。
名のある武将は長篠・設楽原の戦いに出陣していたため、諏訪原城のまもりは薄く、海野氏と遠山氏が守っていました。
亀甲曲輪を落とすも、城兵の反撃で大給松平真乗が一時敗北する局面もありました。
- 8月23日
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家康が本陣を日坂の久延寺に移します。
- 翌24日
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武田軍は諏訪原城を守りきれず、小山城を目指して逃げていき、城は徳川の手に落ちました。
家康が本陣を移してわずか1日で落ちてるんか~いっ!
小山城(遠江)の見どころと歴史、御城印を紹介!―武田氏の遠江侵攻拠点 大井川の西岸、河口近くに建つ小山城(遠江)は、武田信玄が駿河を制圧した後、遠江侵攻の第一歩として築いた城で、境目の城。 牧之原台地南東側、湯日川に面した舌状台…
武田勝頼との結びつきを思わせる諏訪原城なんて気に入らないから、牧野城に改名する!
松井忠次、牧野康成に城を守らせて、後に今川氏真を城主にしましたが、天正5年(1577)にわずか1年で氏真を城主から解任しました。
今は徳川に仕えているけれど、駿河は武田氏の領土になってしまっているけれど、駿河を取り戻して駿河の領主になりたい。
なんて思っていたかどうかはわかりませんが、今川氏真はどんな思いで諏訪原城からかつての自分の領土、駿河を眺めていたのでしょう。
1年で解任されてしまったので、城主としては力不足だった可能性は否めません。
徳川氏時代の城の改修
上述したように、徳川氏が所有する城になったとき二の曲輪と巨大な丸馬出が増築されました。
さらに、堀にも改修跡が見られ、薬研堀から箱堀への改修が複数箇所で発見されています。
諏訪原城へのアクセス
諏訪原城ビジターセンター前に駐車場がありますが、多くは駐められません。
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