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鳥羽山城の見どころと歴史、御城印を紹介!―二俣城の戦いでの徳川家康本陣

鳥羽山城は、二俣城を攻めるために徳川家康の家臣である大久保忠世が築いた対の城。

鳥羽山城の名が文献に登場するようになるのは、天正3年(1575)の家康による二俣城攻めの時。

城地山城
石垣野面積
城郭構成単郭式(ただし、家康時代は連郭式)
最初の城の築城者大久保忠世
最初の城の築城年代1575年

この地には3つの城郭があり、笹岡城(二俣古城)の南を守るために二俣城と鳥羽山城が築かれました。二俣城には軍事機能を、鳥羽山城には御殿機能を多くもたせた別城一郭の城です。

現在の鳥羽山城は、家康の関東移封後に入った堀尾氏が改築した織豊系近世城郭跡ですが、

  • 丁寧な作りの石垣
  • 幅広の大手道
  • 少ない瓦葺建築物
  • 枯山水庭園がある

という点について、織豊系城郭としては異色の存在です。

鳥羽山城の魅力

独断と偏見による鳥羽山城の魅力

  • 第二次二俣城の戦いで徳川家康が本陣をおいた城
  • 二俣城と別城一郭の城
  • 二俣城とは対照的に、軍事機能よりも居住性と政治的中心地に重きをおいた城

本記事では、鳥羽山城の見どころと歴史を紹介します。

目次

鳥羽山城の構成と見どころ

鳥羽山公園案内図
鳥羽山公園案内図

鳥羽山城は3つの山頂部分東群、中央群、西群の3つの部分で構成され、それぞれに城郭遺構が残っています。

西群を中心に城郭遺構がよく残っており、一般的に鳥羽山城といえば西群のことを指します。

鳥羽山砦、南山砦と呼ばれているものが鳥羽山城中央群、東群です。これらは私有地で鉄塔が立っていたり、土取りによる破損が著しいのですが、興味のある方はこちらにも足を伸ばしてみてはいかがでしょうか。

看板には「徳川家康が二俣城攻略の時砦を築き本陣を構えたところとして知られる」とありますが、

徳川家康公

わしが二俣城の戦いで本陣をおいたのは中央群なんじゃけどな。

西群にも家康は軍をおいていましたが、家康の関東移封後に入った堀尾氏による改変が著しいため、家康時代の鳥羽山城西群の様子はよくわかっていません。

大手道

幅が広くゆったりとした大手道。

軍事目的の城であれば、このような幅が広くて真っ直ぐで登りやすい大手道は不利になってしまいます。

東の丸

大手道をそれたところにある東の丸は、石垣がよく観察できます。

巨石が印象的

鳥羽山城東の丸

門は南に大手門、北に搦め手門、東に東門の3つがあります。

大手門

大手門には石垣が残り、大手門から下を眺めると、外枡形が残っているのがよくわかります。

大手門周辺は石垣がよく残っているため、鳥羽山城の石垣の観察に適しています。野面積み。二俣城と同じ石材が使用されています。

搦手門

搦手門

搦手門にも左右に石垣が残っています。

曲輪(本丸)

鳥羽山城本曲輪

本丸からは、建物の遺構が発見されていますが、瓦葺建物は少なかったようです。

丸の南部分には展望デッキがあります。展望デッキから本丸全体を眺めることはもちろんのこと、南を振り返れば遠く浜松市街地を眺めることができます。

鳥羽山城からの眺め

鳥羽山城から南方面を眺める

鳥羽山城はもともと要塞としての昨日は乏しく、二俣城の南側の視界を確保する補完的役割を担っていたことを考えれば、この南方面への眺望は納得です。

城主 城山塔子

流石にここから浜松城を見つけるのは難しいかな

枯山水庭園跡

1974、78年の発掘調査で発見された庭園跡です。

二俣城は手狭で曲輪の増設ができなかったため、鳥羽山城に御殿を設け、居住と政治の中心地としての役割をもたせました。

城主 城山塔子

この規模の山城で庭園があるのは珍しい

鳥羽山城の枯山水庭園

他の曲輪・石垣

虎口周辺から西・南側にかけて石垣が残っています。

鳥羽山城の腰巻石垣

腰巻石垣

鳥羽山城には鉢巻石垣と腰巻石垣があります。

腰巻石垣は崩壊が著しいだけで、もともとは「鉢巻き石垣も腰巻石垣も、本来は一連の石垣だったのでは?」という説があります。

笹曲輪

笹曲輪には休憩所。ここからの眺望もなかなかよろしい。

鳥羽山城笹曲輪
著:加藤理文, 編集:静岡新聞社
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天竜観光協会で購入できる鳥羽山城の御城印

二俣城と鳥羽山城の御城印
二俣城と鳥羽山城の御城印

鳥羽山城の御城印は、天竜二俣駅隣の天竜観光協会で購入できます。二俣城とのセット売り

天竜観光協会は、天竜二俣駅の隣りにあります。駐車場もすぐ隣りにあるので、車で行っても公共交通機関で行っても、購入しやすい場所です。

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鳥羽山城の歴史

砦自体は今川時代から使用されていましたが、二俣城を奪取した武田軍は二俣城を利用しても鳥羽山城は使用していませんでした。

徳川家康公

武田氏は鳥羽山城には無関心だったのか、簡単に城を築くことができたよ

天正3年(1575年):第二次二俣城の戦い

長篠の戦い後、家康はすぐさま二俣城奪還のための包囲網を構築。二俣城を孤立無援の状態にしました。鳥羽山城は二俣城を包囲するための砦や城の一つです。

家康が二俣城の戦いで本陣をおいたのは、鳥羽山城の中央群。東群は階段状の曲輪群や堀切の跡が見つかっていますが、改変著しく、残念ながら全体像を把握困難になっています。

関ケ原の戦い後

慶長6年(1601)、松平忠頼が浜松に入り、二俣も領国とします。

しかし二俣城も鳥羽山城も城の役割としては終了しており、慶長20年(1615)の一国一城令までには廃城になったと考えられています。

崩壊の仕方から、破城行為があった可能性があると考えられています。

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