掛川古城こと天王山城は、掛川城の前身となる城であり、掛川城の戦いの際に徳川家康が本陣を置いた場所です。
別称 | 天王山城 |
城地 | 平山城 |
城郭形式 | 連郭式 |
最初の城の築城者 | 朝比奈泰熙 |
最初の城の築城年代 | 1473~1475年の間 |
今川氏真は武田軍に駿府館を逐われ、家臣筆頭の朝比奈氏を頼って掛川城に逃げ込みました。
掛川城とは目と鼻の先。
こんなところに本陣を置かれたら、籠城する氏真側は気が気でなかったに違いない
独断と偏見による掛川古城の魅力
- 掛川城の戦いで家康の本陣
- 掛川市街地にあるのでひじょうに探訪しやすい場所
本記事では、掛川城の前身となった掛川城の見どころを紹介します。
掛川古城の構成と見どころ
本曲輪、大堀切、二の曲輪、三の曲輪という構成で並んだ連郭式です。
- 本曲輪:龍華院
- 二の曲輪:子角山
- 三の曲輪:水道施設、市消防署
現在北池公園となっている場所は、湿地帯として天然の要害でしたが、東半分は埋め立てられてしまい、生涯学習センターとなってしまっています。
掛川城から北に向かって歩き、掛川中央図書館を過ぎてしばらく行った先に入り口があります。
掛川古城の本曲輪へは、この坂を登っていきます。
掛川古城は、現在龍華院になっています。
本曲輪にある龍華院
思ったより小さなお堂
2代目将軍秀忠の生母「西郷の局(お愛の方)」の碑
西郷の局は静岡に祀られていますが、掛川市の郷土の偉人として、ここにも祀られているのでしょうか?
家康の側室になる前に2回結婚していますが、2回とも夫を戦争で亡くし、未亡人となりました。前夫との間に一男一女を授かっています。
美人で聡明だったため家康に見初められて側室となり、第2大将軍秀忠と尾張清須藩松平忠吉を生んでいます。しかし28歳の若さで駿府城で死去。
大堀切
ここへ行くには、一旦本曲輪を降りて、別の脇道へと行かなければ以下ません。
もしくは、消防署と小学校の間にある小道を登っていきます。
行った時は、立入禁止になっていました。
知らないと、つい見落としてしまうような場所です
二の曲輪こと子角山
小学校の裏山がそのまま二の曲輪。
裏山の急階段を登った先は、児童公園になっていました。
柵の向こうは城跡らしく急崖
掛川古城の歴史
掛川古城が築城されることになったきっかけは、応仁の乱に遡ります。
掛川古城の築城のきっかけ
遠江の守護である斯波氏は西軍でしたが、今川義元の祖父である義忠は東軍の細川勝元の側について兵を挙げました。義忠は花の御所にいる将軍足利義政の警護に当たります。
義忠は細川勝元の命にしたがって遠江に侵攻し始め、掛川の庄大官職につきます。
斯波氏の勢力下にあった遠江の失地回復の拠点とするため、義忠は家臣の朝比奈泰熙に命じて築城させたのが今の掛川古城です。
朝比奈氏時代の掛川古城
掛川古城は本曲輪、二の曲輪、三の曲輪、北の曲輪で構成されていました。
完成して少し経った頃、今川氏親はさらに大きい城の建築を命じ、新城(今の掛川城)の建築を命じました。
掛川城が築城された際、掛川古城は廃城となりましたが、出城として保存されました。
掛川城主としての朝比奈氏は3代ですが。3代目の泰朝の時代に今川義元が殺され、武田氏と徳川氏の侵攻をうけた今川氏真が掛川城に逃げ込み、歴史の表舞台に登場することになります。
詳しくは掛川城の歴史を参考にしてください
龍華院について
現在本丸に置かれている龍華院について、軽く触れます。
- 1655年
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掛川城城主北条出羽守氏重が徳川家光公の御霊牌を奉斎することを認められ、龍華院を開山します。しかし明治時代になると、かなり荒廃が進んでいる状態になってしまいます。
- 1954年
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静岡県文化財の指定を受けます。
- 1954年
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霊廟が解体修理されます。
霊廟が県の重要文化財に指定されていることから、ここだけは開発を免れ、残っています。
掛川古城へのアクセス
掛川城に来たのなら、ちょっと足を伸ばして掛川古城を見ないともったいないよ!
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