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駿府城の見どころと歴史を紹介!―今川氏の元本拠地であり徳川家康の隠居城

駿府城は、今川氏の本拠地「今川館」があった場所に徳川家康が建てた城です。

別称駿府の浮城、駿府の水城
城地平城
天守天守台のみ
城郭構成輪郭式
最初の城の築城者
最初の城の築城年代

家康が江戸幕府を開いた後、天下普請により隠居城として駿府城をさらに強化して建てました。

駿府城の名の由来は、「駿河府中」がなまって駿府城になりました。「府中」とは、国府が置かれた場所のことを指します。

駿府城の魅力

独断と偏見による駿府城の魅力

異論は認める

  • 守護大名今川氏の本拠地
  • 徳川家康が幼少期を過ごした地
  • 大御所徳川家康の隠居城としての風格
  • 巨大な縄張と天守台跡
  • 静岡駅近く、静岡市市街地のど真ん中
目次

駿府城の構成と見どころ

駿府城公園地図
駿府城公園地図

駿府城は、方形の本丸を中心に二の丸が取り囲み、さらに三の丸が取り囲む輪郭式と呼ばれる構造。

本丸(内堀)と二の丸(中堀)、三の丸(外堀)には水掘が張り巡らされていました。内堀のほとんどは埋め立てられてしまっており、外堀も一部埋め立てられてしまっている状況。

三の丸は現在、学校や体育館、文化会館といった公共施設が建ち並んでいますが、本丸と二の丸は駿府城公園として利用されています。

駿府城では、以下の3つの施設が有料見学になっています。それぞれの施設のチケットだけでなく、3つまとめて購入できます。

施設名料金
巽櫓たつみやぐら坤櫓ひつじさるやぐら共通券大人:¥360(団体¥280)、小中学生:¥120(団体¥90)
紅葉山庭園大人:¥150(団体¥120)、小中学生:¥50(団体¥40)

駿府城に入る門は東西南北にそれぞれ4ヶ所ありますが、東の門だけが復元されています。

東御門

二の丸東に位置する東御門。

二の丸堀(中堀)に掛かる東御門橋を渡ると、高麗門、櫓門、多門櫓で構成される内枡形門がお出迎え。

城主 城山塔子

門をくぐると、まず四方から狙い撃ちにされる感じがあります。

東御門は寛永12年(1635)の大火で天守とともに焼失しましたが、寛永15年(1638)に再建されました。現在の東御門は、平成8年(1996)に再建後の門の姿を復元したものです。

復元された東御門は、同じく復元された巽櫓たつみやぐらと一緒に内部を見学できます。

東御門を入って右側に行ったところに、チケット売り場があります。

駿府城の櫓は、巽櫓と坤櫓ひつじさるやぐらの2つが復元されており、内部を見学できます。

巽櫓たつみやぐら

駿府城巽櫓
駿府城巽櫓

駿府城の東南角を守る隅櫓で、辰巳の方角にあったことから巽櫓とよばれました。

二の丸側からは木々に覆われて全貌がわかりにくいですが、二重三階入り母屋構造の櫓です。

全国の城郭でも珍しい、L字型の平面を持つ櫓。

東御門と同様に寛永の大火で焼失後再建されましたが安政地震によって全壊。現在の巽櫓は平成元年(1989)に復元されたものです。

東御門&巽櫓の内部は、駿河と駿府城の歴史をパネル紹介する博物館になっています。

江戸時代の駿府城の模型、発掘された金箔瓦、などが展示されています。

坤櫓ひつじさるやぐら

二の丸南西の方角を隅櫓で、未申の方角にあったことから坤櫓と呼ばれています。

安政地震(1854)で崩壊して以降、建物は再建されないままでしたが、平成に入り復元されました。

復元計画は、発掘調査からの知見に加え、徳川系の城である名古屋城の西南隅櫓など、現存する櫓を参考にして行われました。

内部は、坤櫓の発掘と復元に至る過程を紹介するパネル展示が行われています。

一部床板や天井板を外しており、櫓の内部構造を見られるようになっています。

坤櫓に展示されている具足

坤櫓で展示されている具足

左側の赤い具足は、今川義元モデル。

城の防衛施設の要の一つである堀。駿府城はかつて内堀、中堀、外堀の三重の堀で守られていました。

本丸堀は発掘調査により姿を現した堀で、石垣は打込接うちこみはぎ赤丸で囲んだ部分は算木積みという積み方になっている部分です。幅約23~30m深さは当時約5mあったそう。

二の丸掘の石垣は切込接きりこみはぎという隙間のない積み方をされた石垣です。二の丸堀は遊覧船が走っており、東御門近くに船着き場があります。

駿府城二の丸水路に掛かる橋

二の丸水路に掛かる橋

本丸掘と二の丸堀の間には、本丸堀の水位を保つための水路が儲けられています。

水が張ってあるため水路の底は見えませんが、本丸側約50mにわたり石が敷かれている珍しい構造になっているのだとか。

天守台発掘現場

駿府城の大きな見どころの一つに、天守台発掘現場があります。

駿府城の天守は二度に渡る火災で焼失してしまった後、再建されることはありませんでした。

きっしゃるは、発掘調査から出土したものを展示してあるプレハブ小屋です。

駿府城天正期天守石垣と今川館

発掘された天正期石垣と今川館

発掘調査により、慶長期天守台の内側に天正期の天守台が発見され、さらにその前の時代の今川館の跡が発見されています。

天正期の石垣は野面積み

今川館の遺構としては、薬研堀の他、窪地状の遺構から当時としては貴重な中国製磁気の破片が見つかっているそう。

写真では発掘現場の一部しか撮れていませんが、発掘現場を一周すると、天守台の大きさに圧倒されます。特に家康が天下を取った後に建設された慶長期天守台の大きさは圧巻です。

慶長期の天守石垣は打込接うちこみはぎ

天守台の石垣は上部を削られてしまっているため、どのくらいの高さがあったのか、正確なことは分かっていません。

巨大な天守台の上に乗っていたであろう天守は想像力を働かせるしかありませんが、天下人徳川家康にふさわしい巨大な天守であっただろうことは容易に想像できます。

石垣に残る刻印

駿府城は天下普請で築城された城。各大名たちがどの部分を担当したのかわかるように、石垣の石に刻印を残しました。

ヨーロッパの石造りの城の城壁を構成する石にも刻印が残されていることがあります。

ヨーロッパの城の場合、作業量に応じて石工たちに賃金を支払うため、石工たちが自分が施工した石がどれかわかるようにしたものです。

城主 城山塔子

同じ刻印でも、日本とドイツではその目的が違います。

紅葉山庭園

見る場所によって様々な風情を楽しめる紅葉山庭園。

よく設計されているなと感心します。

茶室

庭園の奥には、隠れ家のような茶室があります。

城主 城山塔子

お茶とお茶菓子を頂いて、ちょっと休憩

その他駿府城の見どころ

家康公の像

駿府城の写真でよく見る家康公の像は、天守台発掘現場の東側に立っています。背後にあるのが天守台発掘現場。

家康公お手上のみかん

上記の家康公の像があるところのすぐ近く、家康公お手植えのみかんがあります。

今でも実をならせているとのこと。

駿府城の公式サイト

駿府城の御城印と御城印帳、スタンプ

御城印帳は巽櫓出口にある売店で販売されています。

御城印は、巽櫓入り口のチケット売り場、または巽櫓出口の売店で販売されています。

最初、チケット売り場で御城印を購入しようとしたところ、

売店のおばちゃん

ここでも御城印を購入できるけど、巽櫓の中でも売っているから、巽櫓に行くならここでわざわざ購入しなくてもいいよ

とのアドバイスに従って、巽櫓で購入しました。

御城印帳と御城印

駿府城の御城印帳は大御所家康公の隠居城らしくゴージャス!

駿府城と同じく徳川家康公ゆかりの城である浜松城岡崎城の御城印帳と比べて、無駄にゴージャス!

御城印は、通常の紙バージョンだけでなく、静岡県産のヒノキのヒノキバージョンもあります。

城主 城山塔子

御城印帳も、ヒノキの御城印も、他のものと比べてお値段もそれなりに高かった。これも大御所家康公の力!

スタンプ

駿府城スタンプ

駿府城のスタンプ

駿府城のスタンプも、巽櫓にあります。スタンプ色は青。

駿府城は100名城の41番。

すでに持っているのなら、公式スタンプ帳を忘れずに。持っていない場合は、売店でも購入できます。

駿府城の歴史

駿府城古地図
駿府城古地図(国立国会図書館, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由)

駿府城は元々駿河国の国府が置かれていた場所。

駿府城が築かれるずっと前の弥生時代からここには集落があり、奈良時代から平安時代にかけては役所が置かれており、その時代のものが城内から出土しています。

駿府城の始まりは、今川氏の平時の城(館)として始まっています。

駿府城の下には、今川時代の今川館の遺構が埋まっていることは、天守発掘現場を見れば分かる通り。

今川氏の時代

今川氏は10代目氏真までの約230年にわたって駿府を本拠地にしました。

規模は躑躅が埼館とほぼ同規模の方二町、約200m四方のいわゆる標準的な方形の守護館と考えられています。

江戸時代の絵図に四つ足門があり、四足門が今川館の大手門だったという伝承がありますが、定かではありません。

今川義元に時代に全盛期を迎えます。

発掘調査から

今川館のどこに居館があったのか、正確なことは分かっていません。

発掘調査から、今川時代と考える遺構はいくつか発見されており、庭園の池の遺構が坤櫓近くから発見されています。

また、焼土層が見つかっており、武田家臣馬場信房が火をつけまわって今川館を焼失させた武田信玄による駿府今川館攻めのときのものと考えられています。

武田軍に襲撃された今川氏真は、この時は命からがらなんとか懸川かけがわ城に逃げ延びました。

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関東移封前の徳川氏の時代

五カ国領有時代の天正13年(1585)、今川館があった場所に駿府城の築城を開始します。

この時代になると、戦うための土の城から、権力の象徴として見せる要素も加わった石垣の城である織豊しょくほう系城郭に変わります。

徳川家康公

豊臣秀吉、織田信雄のぶかつに次ぐ3番目の地位じゃからの。地位に相応しい立派な天守を建てるのじゃ。

『家忠日記』の記載通り、大天守と小天守からなる連郭式の天守台跡が見つかっています。

豊臣大阪城に匹敵するほどの巨石、大量の金箔瓦が出土しています。

駿府城の金箔瓦は、織田系と豊臣系の両方の特徴を併せ持つ金箔瓦が出土しています。

城主 城山塔子

徳川系金箔瓦?

中村一氏かずうじの時代

家康が関東に移封されると、駿府城には豊臣系大名で秀次配下の中村一氏が入ります。

発掘調査から、豊臣系の金箔瓦が発見されています。

金箔瓦は誰でも使用できるものではなく、豊臣政権の使用許可が必要なもの。それだけで駿府城の重要な位置づけが伺えます。

大御所徳川家康の時代

駿府城天守台推定模型
駿府城天守台推定模型

家康が天下人となり、将軍職を息子秀忠に譲って自らは大御所として駿府城に隠居。慶長12年(1607)2月17日、天下普請てんかぶしんによる建設が始まり、家康は7月3日に駿府城に移り住んでいます。

徳川家康公

別妻と子どもたちと、ここの本丸で余生を過ごしたんじゃ。余生といっても政治や外交と、何かとやること多くて忙しかったがのう。

藤堂高虎が縄張りを担当し、内枡形虎口という防御性と権威性に優れた門になります。天守、二の丸書院、茶室を小堀遠州が担当。この2名は他にも多くの城の築城を担当しているので、よく聞く名前です。

慶長大改修
  • 二の丸までだった縄張りを三の丸まで広げる
  • 天守の作り直し

絵図と発掘調査から、大天守が中央にある連立式に似た天守だったのではないかと推定されています。

天守にも井戸があり、籠城することも考えた設計になっています。

設計図が残っていないので、本当の姿は謎に包まれたまま。金銀銅を用いたきらびやかな天守だったことは確かで、さまざまな研究者がさまざまな駿府城像を提案しています。

これもきっと、幻の駿府城の一つの想像。

家康死後の駿府城

徳川家光の弟である忠長が8年間統治をし、久能山東照宮の修築を行ったりしていました。

忠長が寛永10年(1633)に亡くなった後は、城代が入って幕府直轄領を管理する体制になりました。

天守焼失

寛永12年(1635)に城下で火災が発生し、天守と御殿も焼失してしまいました。

天守建設には莫大な資金が必要ですし、戦のない平穏な時代に天守は必要ありません。焼失以後、天守が再建されることはありませんでした。

徳川家康公

わしの自慢の天守が25年で役目を終えたのか。時代の流れで、仕方ないことかもしれんのう。

2度の震災

宝永4年(1707)の宝永地震により石垣が崩れ、建物も1/3を失います。この都市は、富士山も噴火している大災害の都市でした。

駿府城では手伝普請てつだいぶしんにより、命じられた大名たちによる復旧作業が東海道筋とともに最優先で行われています。

宝永自信から約150年後の安政元年(1854)には安政地震により、建物の殆どが全壊。三の丸の石垣が6~7割崩壊。

幕府の財政難から、本丸御殿も坤櫓も、東御門も再建されませんでした。

明治以降

幕末慶應3年(1867)の大政奉還後の慶應4年(1868)、徳川家には静岡藩が与えられ、明治4年(1871)の廃藩置県までの短い間、徳川16代徳川家達いえさとが旧幕臣たちとともに駿府に移住しました。

明治6年(1873)の廃城令により、廃城ではなく駿府城は在城となったものの、門や建物などは民間に売却され、三の丸は開発が進みました。

戦後

昭和24年(1949)に二の丸以内が私有地となり、駿府公園として整備されました。しかし昭和32年(1957)の国体や都市化に伴う開発で堀の産みたてや石垣の破壊が行われてしまいます。

しかし歴史的景観保護を目的とした運動が起こり、計画された城郭施設がすべて破壊されたわけではありません。

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駿府城へのアクセス

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