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駿府城の歴史を紹介!―徳川家康の隠居城

駿府城は、今川氏の本拠地「今川館」があった場所に徳川家康が建てた城です。

別称駿府の浮城、駿府の水城
城地平城
天守天守台のみ
城郭構成輪郭式
最初の城の築城者今川館:不明、駿府城:徳川家康
最初の城の築城年代今川館:不明、駿府城:1585

家康が江戸幕府を開いた後、天下普請てんかぶしんにより隠居城として駿府城をさらに強化して建てました。

駿府城の名の由来は、「駿河府中」がなまって駿府城になりました。「府中」とは、国府が置かれた場所のことを指します。

駿府城の魅力

独断と偏見による駿府城の魅力

異論は認める

  • 守護大名今川氏の本拠地
  • 徳川家康が幼少期を過ごした地
  • 大御所徳川家康の隠居城としての風格
  • 巨大な縄張と天守台跡
  • 静岡駅近く、静岡市市街地のど真ん中

本記事では、駿府城の歴史を紹介します。

目次

駿府城の歴史

駿府城古地図
駿府城古地図(国立国会図書館, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由)

駿府城は元々駿河国の国府が置かれていた場所。

駿府城が築かれるずっと前の弥生時代からここには集落があり、奈良時代から平安時代にかけては役所が置かれており、その時代のものが城内から出土しています。

駿府城の始まりは、今川氏の平時の城(館)としてはじまっています。その今川館の築城期については下記の2説があります。

  • 初代範国:守護所を置いたとき
  • 4代目範政:葉梨庄はなしのしょうから入府したとき

駿府城の下には、今川時代の今川館の遺構が埋まっていることは、天守発掘現場を見れば分かる通り。

今川氏の時代

今川氏真

今川氏真

駿府を本拠として10代約230年続いた今川氏でしたが、氏真の代で戦国大名としての今川氏は滅びました。

戦国大名としての今川氏は滅びましたが、高家として存続しました。

写真:未詳, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

応仁の乱のあと、戦いが地方に波及し、武士たちが台頭したことにより困窮した公家たちは伝をたどって地方の守護大名の庇護を受けるようになります。

今川氏が治める駿河には多くの公家たちが下向したため、「小京都」と呼んでも良いほど公家文化が栄えます。

現在の地形にその面影はありませんが、今川氏の時代、駿府の街の真ん中を安倍川が流れていました。安倍川を鴨川に見立てて、京都の街に近づけようとしていた可能性があります。

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今川館の規模は躑躅が埼館つつじがさきやかたとほぼ同規模の方二町、約200m四方のいわゆる標準的な方形の守護館と考えられています。

今川氏は今川義元に時代に全盛期を迎えます。

今川義元が家督を相続するときに発生した花倉の乱では、堀や土塁、策などを急造し、防御力強化がはかられました。

永禄10年(1568)12月13日

今川館は武田信玄軍に襲われます。

2日後の12月15日、今川氏真は妻とともに馬や輿もなく徒歩で掛川城に逃げ込みました。

今川氏真

掛川城では家康殿に攻められてしまったけれど、命まで奪おうとしなかった。いつかまた、駿河に帰りたい。

発掘調査から

今川館のどこに居館があったのか、正確なことは分かっていません。

江戸時代の絵図に四つ足門があり、四足門が今川館の大手門だったという伝承がありますが、定かではありません。

発掘調査から、今川時代と考える遺構はいくつか発見されており、庭園の池の遺構が坤櫓ひつじさるやぐら近くから発見されています。

発見された遺構がが今川館だったのか、それとも重臣屋敷だったのか、今川館の全体像は未だにつかめておらず、今後の発掘調査と研究を待つしかありません。

また、焼土層が見つかっており、武田家臣馬場信房ばばのぶふさ(信春とも、文献によって異なる)が火をつけまわって今川館を焼失させた武田信玄による駿府今川館攻めのときのものと考えられています。

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関東移封前の徳川氏の時代

五カ国領有時代の天正13年(1585)、今川館があった場所に駿府城の築城を開始します。

この時代になると、戦うための土の城から、権力の象徴として見せる要素も加わった石垣の城である織豊しょくほう系城郭に変わります。

徳川家康公

豊臣秀吉、織田信雄のぶかつに次ぐ3番目の地位じゃからの。地位に相応しい立派な天守を建てるのじゃ。

『家忠日記』の記載通り、大天守と小天守からなる連郭式の天守台跡が見つかっています。

豊臣大阪城に匹敵するほどの巨石、大量の金箔瓦が出土しています。

駿府城の金箔瓦は、織田系と豊臣系の両方の特徴を併せ持つ金箔瓦が出土しています。

城主 城山塔子

徳川系金箔瓦?といっても良いのではないかな?

中村一氏かずうじの時代

家康が関東に移封されると、駿府城には豊臣系大名で秀次配下の中村一氏なかむらかずうじが入ります。

発掘調査から、豊臣系の金箔瓦が発見されています。

金箔瓦は誰でも使用できるものではなく、豊臣政権の使用許可が必要なもの。それだけで駿府城の重要な位置づけが伺えます。

大御所徳川家康の時代

駿府城天守台推定模型
駿府城天守台推定模型

家康が天下人となり、将軍職を息子秀忠に譲って自らは大御所として駿府城に隠居。慶長12年(1607)2月17日、天下普請てんかぶしんによる建設が始まり、家康は7月3日に駿府城に移り住みます。

薩摩土手を作って安倍川の流れを変えています。何本もの川が町を流れ、駿府城のある場所は土盛がなされ、周囲よりも2~3m高くなっています。

徳川家康公

別妻と子どもたちと、ここの本丸で余生を過ごしたんじゃ。余生といっても政治や外交と、何かとやること多くて忙しかったがのう。

藤堂高虎が縄張りを担当し、内枡形虎口という防御性と権威性に優れた門になります。天守、二の丸書院、茶室を小堀遠州こぼりえんしゅうが担当。この2名は他にも多くの城の築城を担当しており、よく聞く名前です。

慶長大改修
  • 二の丸までだった縄張りを三の丸まで広げる
  • 天守の作り直し

絵図と発掘調査から、大天守が中央にある連立式に似た天守だったのではないかと推定されています。

天守にも井戸があり、籠城することも考えた設計になっています。

設計図が残っていないので、本当の姿は謎に包まれたまま。金銀銅を用いたきらびやかな天守だったことは確かで、さまざまな研究者がさまざまな駿府城像を提案しています。

これもきっと、幻の駿府城の一つの想像。

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家康死後の駿府城

徳川家光の弟である忠長が8年間統治をし、久能山東照宮の修築を行ったりしていました。

忠長が寛永10年(1633)に亡くなった後は、城代が入って幕府直轄領を管理する体制になりました。

天守焼失

寛永12年(1635)に城下で火災が発生し、天守と御殿も焼失してしまいました。

天守建設には莫大な資金が必要ですし、戦のない平穏な時代に天守は必要ありません。焼失以後、天守が再建されることはありませんでした。

徳川家康公

わしの自慢の天守が25年で役目を終えたのか。時代の流れで、仕方ないことかもしれんのう。

2度の震災

宝永4年(1707)の宝永地震により石垣が崩れ、建物も1/3を失います。この年は、富士山も噴火している大災害の年でした。

駿府城では手伝普請てつだいぶしんにより、命じられた大名たちによる復旧作業が東海道筋とともに最優先で行われています。

宝永地震から約150年後の安政元年(1854)には安政地震により、建物の殆どが全壊。三の丸の石垣が6~7割崩壊。

幕府の財政難から、本丸御殿も坤櫓も、東御門も再建されませんでした。

明治以降

幕末慶應3年(1867)の大政奉還後の慶應4年(1868)、徳川家には静岡藩が与えられ、明治4年(1871)の廃藩置県までの短い間、徳川16代徳川家達いえさとが旧幕臣たちとともに駿府に移住しました。

明治6年(1873)の廃城令により、廃城ではなく駿府城は在城となったものの、門や建物などは民間に売却され、三の丸は開発が進みました。

戦後

昭和24年(1949)に二の丸以内が私有地となり、駿府公園として整備されました。しかし昭和32年(1957)の国体や都市化に伴う開発で堀の埋め立てや石垣の破壊が行われてしまいます。

しかし歴史的景観保護を目的とした運動が起こり、計画された城郭施設がすべて破壊されたわけではありません。

駿府城へのアクセス

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