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興国寺城の歴史ー北条早雲旗揚げの城

興国寺こうこくじ城といえば、北条早雲ほうじょうそううんこと伊勢宗瑞いせそうずい旗揚げの城として知られています。

戦国時代の始まりはいつ頃かというものについては諸説あります。その中の一つが、北条早雲が旗揚げをしたのが戦国時代の始まりとするもの。

つまり、戦国時代はこの城から幕が開けたといっても過言ではありません。

別称杜若城
城地平山城
城郭構成連郭式れんかくしき(北曲輪くるわ・本丸・二の丸・三の丸)
天守
最初の城の築城者不明
最初の城の築城年代築城年代は不明ですが15世紀以前なのは確か

北条氏、今川氏、武田氏が領土争いをしていた場所であり、この三氏を渡りあって各氏が滅んだ後は、最終的に徳川氏の所領になりました。

現在の遺構は北条氏時代のものではなく、武田や徳川時代の改修を受けた痕跡が多く見られます。そのため、北条時代、今川時代の城がどのようなものであったのか、実はよくわかっていません。

興国寺城の魅力

独断と偏見による興国寺城の魅力

  • 北条早雲旗揚げの城
  • 街道を見下ろし、駿河湾と伊豆を見渡せる眺望の良さ
  • 今川、北条、武田が奪い合った城
  • 飲み込まれそうな大空堀

本記事では、興国寺城の歴史を紹介します。

興国寺城の見どころ、御城印につきましては、こちらをご覧ください。

目次

興国寺城の歴史

興国寺城地図
興国寺城地図

北曲輪には発掘調査により弥生時代の集落跡が見つかっており、古くから見通しの良い好立地であったことを伺わせます。

城主 城山塔子

興国寺城の本丸土塁に立つと、遠くに駿河湾、さらにその向こうの伊豆半島までがよく見えます。

根方街道と竹田街道だけでなく、海を航行する船までも監視できた場所。

古城絵図には北曲輪と清水曲輪が載っておらず、絵図が描かれた当時この2つの曲輪はすでに使用されなくなっていたのではないか?と考えられています。

北条早雲の旗揚げ

興国寺城は後北条氏の祖、北条早雲こと伊勢宗瑞旗揚げの城。

伊勢宗瑞の妹(北川殿)が駿河国守護今川義忠よしただに嫁いでおり、義忠が急死すると家督相続争いが起きます。宗瑞は妹の子、龍王丸(後の今川氏親うじちか)を後継者にするべく参戦しました。

北条早雲
北条早雲 不明Unknown author, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で
長享元年(1484年)

早雲は家督相続争いのときの功績が認められ、氏親より富士郡下方12郷(ほぼ現在の富士市)と興国寺城を与えられます。

これについて、今川氏親の駿河支配を援護するため、自ら東駿の要である興国寺城主になることを買って出たという説があります。

延徳3年(1491)

伊豆の堀越公方ほりごえくぼうの足利政知が亡くなります。

駿河東部を安定させるためには伊豆を攻略しておく必要があります。早雲は堀越公方家の様子を探らせるだけでなく、自ら変装して偵察したと言われています。

北条早雲

修善寺温泉に浸かりながら、情報収集しておったんじゃよ。

明応2年(1493)

足利政知の死後に生じた掘方公方の内紛に乗じて、興国寺城から堀越御所を奇襲攻撃。足利茶々丸ちゃちゃまるを討伐後、伊豆国の敵対勢力掃討作戦を開始。すぐに伊豆を平定したと思われがちですが、実際には約6年を費やしています。

早雲が堀越御所に入ることはなく、近くに韮山にらやま城を築いて興国寺城から移ります。

北条早雲の下剋上

足利茶々丸は11代将軍足利義澄あしかがよしずみの異母兄であり、北条早雲にとっては格上の存在。身分の低いものが身分の高いものを討伐する「下剋上」を行ったということで、北条早雲の下剋上により戦国時代が始まったとされる所以ゆえんです。

城主 城山塔子

茶々丸なんていう可愛らしい名前なのは、ずっと幽閉されていて元服をしていないから幼名のままだったらしいよ。

今川氏時代

天文6年(1537)

今川義元が甲斐の武田信虎と同盟を結んだことにより、河東かとう一乱が勃発。最初は北条側優勢に進むも、武田の援軍を得た今川義元が勝利。

天文18年(1549)

河東一乱後、今川義元は大規模普請を行い、本格的な城郭となります。

興国寺という寺院を蓮光寺境内に移し、真如寺と改称させたうえで、その跡地を城に改修。興国寺城の名前はこれに由来しているとされています。

甲相駿こうそうすん三国同盟が結ばれ、興国寺城は今川氏の支配下に置かれます。

街道沿いの三の丸と最も高いところの北曲輪に16世紀中庸の遺構が多く見つかっています。

武田軍の侵攻

甲相駿三国同盟により平和が訪れていましたが、永禄3年(1560)に桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、力のバランスが崩れてしまいました。

永禄11年(1568)

武田信玄が同盟を破棄し、駿河に進攻を開始します。早雲の孫である北条氏康が今川氏を支援するために東駿河に進攻。興国寺城を占拠します。

興国寺城は北条氏が守り抜きましたが周囲の城は武田氏に落とされ、劣勢になります。

元亀2年(1571)

北条氏康は外交政策により和睦し、興国寺城は武田氏側の城郭に。

三日月堀の発掘調査から出土した陶磁器やかわらけ等の年代測定から、三日月堀は武田氏の時代に造成されたものと考えられています。

徳川時代へ

天正10年(1582)

武田氏が滅亡すると、織田信長に通じていた当時の城主曽根昌世そねまさただは所領と興国寺城を安堵されます。

しかし同年織田信長が本能寺の変で亡くなると、旧武田領を巡って天正壬午てんしょうじんごの乱が勃発。興国寺城は徳川氏のものになり、城主に家臣の牧野康成やすなり、続いて松平清宗きよむねが入りました。

三日月堀が徳川氏の時代に埋められた可能性が高く、堀を埋めることにより城域が二の丸、三の丸に広がりました。

天正18年(1590)

家康が関東移封されると、中村一氏かずうじの家臣河毛重次かわげしげつぐが城主になります。

天野康景

天野康景

不明、17世紀半ば, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

慶長5年(1600)

関ケ原の合戦後、天野康景やすかげが興国時藩1万石の藩主になります。

慶長12年(1607)

天野康景の家臣が天領の百姓を殺害。それを受けて天野康景は息子とともに出奔。改易となり、興国寺城は廃城します。

城主 城山塔子

最後は城主の出奔で廃城になってしまうって、なんだかな。続いていたら、近世城郭の立派な天守がある城になっていたかもしれない。

河毛氏の時代なのか、天野氏の時代なのか分かりませんが、大規模な普請が行われ、本丸は大型の門と石組水路、石垣と天守台、櫓に大空堀と、大規模に改修されています。

大空堀は、戦い方が鉄砲時代になったことを受けて、大規模化したものです。

編集:城郭遺産による街づくり協議会
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興国寺城へのアクセス

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