今は川の流れが変わってしまっていますが、天竜川と支流の二俣川に三方を守られた天然の要害。標高90mの台地上に城があります。
北遠の玄関口で、交通や軍事上の要衝でした。
浜松城から北北西約18km、かつては天竜川の流路の一つであった馬込川を通る水上交通でも結ばれていました。
別名 | 蜷原城 |
城地 | 山城 |
城郭構成 | 連郭式 |
最初の城の築城者 | 鵜殿氏長 |
最初の城の築城年代 | 1560年頃 |
この地には3つの城郭があり、笹岡城(二俣古城)の南を守るために二俣城と鳥羽山城が築かれました。二俣城には軍事機能を、鳥羽山城には御殿機能を多くもたせた別城一郭の城。
二俣城は、以下の2点においてよく知られている城です。
- 侵攻してきた甲斐の武田信玄・勝頼父子と、遠江の徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた城
- 徳川家康の嫡男信康が自害した場所
独断と偏見による二俣城の魅力
- 武田信玄が三河侵攻の拠点とし、徳川と争奪戦を繰り広げた城
- 天竜川と二俣川に囲まれた難攻性
- 徳川家康長男信康が自刃した場所
- 鳥羽山城との別城一郭の城
本記事では、二俣城の見どころと御城印、歴史を紹介します。
二俣城を歩くと、攻略しづらい天然の要塞であることがよくわかりました。
二俣城の構成と見どころ
二俣城は、北曲輪、本曲輪、二の曲輪、蔵屋敷、南曲輪が堀切で区切られ、戦国の山城らしくほぼ一直線にそれらの曲輪が並んでいる連郭式の縄張り。
竪堀はあっても横堀が見られないのは、ここが天嶮の地で横堀を必要としなかったからなのか。
「二俣城入り口」の看板があるので、その看板にしたがって城山を登っていきます。登っている道はすでに二俣城の腰曲輪。
旭ヶ丘神社への階段
道を登っていくと、旭ヶ丘神社へといたる階段がありました。旭ヶ丘神社は北曲輪にあります。
とりあえずここはスルーして、先へと進みます。
先へ進むと、蔵屋敷・南曲輪と二の丸への分かれ道。とりあえず蔵屋敷方面へ。
二の丸と蔵屋敷の間にある堀切
今はU字型の堀で紅葉も美しいですが、当時はもっと堀は深くおそらくV字型の薬研堀だったはず。
武田氏の時代に設けられたと推定されています。
蔵屋敷
蔵屋敷を下って南曲輪に向かう途中の虎口では、曲輪の切岸の絶壁ぶりがよくわかりました。
ところどころ石積みの残骸のようなものがあったので、崩れないように石材で補強していたのかもしれません。
こんなところ、絶対登れんわ!
二の曲輪
二の曲輪の虎口
二の曲輪の虎口は石垣。ここが城の表玄関口の追手門。
二の曲輪にある稲荷神社
枡形門
崩れてしまっていることもあり、縄張図をみるまでここが枡形門だとは気づきませんでした。
二の曲輪から本丸へは、枡形門でつながっています。
二俣城本丸
本丸には、野面積みの石垣の天守台。
天守台は、思わず登ってしまいたくなうような雰囲気を醸し出していますが、
登るな危険!
の表示がありました。
絶対眺めいいやつじゃん!ここに展望台希望!
天守台のすぐ向こうは崖になっており、すぐ天竜川。見晴らし最高の場所!だとは思いますが、木々で何も見えません。
本丸から三の丸へは、馬出を通っていきます。
北曲輪
北曲輪にある旭が丘神社
二俣城の戦いとは関係なく、日新・日露戦争の英霊を祀ってある神社です。
堀切の上にかかるコンクリート製の橋を渡っていきますが、中世の頃は木橋が掛かっていたかもしれません。
北曲輪と本丸の間の堀切
堀切はそのまま竪堀となって川まで続いている様子。
写真では分かりづらいかもしれませんが、すぐ向こうには天竜川の激しい流れが見えます。流れの音もよく聞こえてきます。
鳥羽山城へ
一旦本丸まで戻り、土塁の上を歩いて二の丸の裏を進むと、下へ降りる道が見つかります。
その道を進むと、二俣城の西曲輪と水の手曲輪に行けます。
西曲輪には遊具が置いてあり、水の手曲輪には休憩所。
水の手曲輪の写真右側に見える住宅地は、戦国時代は川底で二俣川が流れていたはずなので、可能性は高いです。
天竜川の堤防は、そのまま鳥羽山城へと続く道になっているので向かいます。
今と昔では川の流路が変わってしまっていますが、現在住宅地になっているこの場所は、戦国時代には天竜川の支流、二俣川が流れていました。2kmぐらいしか離れていません。
戦国時代に、思いを馳せてみましょう
天竜観光協会で購入できる二俣城御城印
二俣城の御城印は、天竜二俣駅隣の天竜観光協会で購入できます。鳥羽山城とのセット売り。
天竜観光協会は、天竜二俣駅の隣りにあります。駐車場もすぐ隣りにあるので、車で行っても公共交通機関で行っても、購入しやすい場所です。
二俣城の歴史
北遠の山城の位置関係
二俣城は笹岡本城を守る最前線基地として存在しており、二俣城・鳥羽山城で笹岡本城の南を守る一城別郭でした。
鳥羽山城も利用されていましたが、光明山城までの退路が確保されていた二俣城が好まれました。
文献に「二俣城」とあっても、「二俣城」「鳥羽山城」「笹岡城」のうち、どの城を指すのか、あるいは3城まとめてなのか、推定は難しいらしいです。
二俣城がいつの時代からあったのかも、はっきりとはわかっていませんが、現在の二俣城に城郭が建築されたのは、桶狭間の戦い以後のことです。
今川氏時代の二俣城
義元時代の今川氏は長期安定政権だったため、築上技術はそれほど発展していません。虎口で横矢を掛ける仕掛けすらありませんでした。
天竜川・二俣川を天然の堀とし、尾根筋を堀切で切断。中心曲輪を土塁が囲んでいました。南、北、西に曲輪はありましたが、その間に堀切はありません。
- 1561年
-
松平元康が三河の今川武将の攻撃を開始し、西三河を制圧、62年には東三河へ進出(三州騒乱)を開始します。その頃
遠江では有力国人を中心とした反今川隆起(遠州忩劇)が勃発し、今川氏真は鎮圧していきます。この頃から、二俣城が要塞として使用され始め、氏真は鵜殿氏長に命じて二俣城を築城させました。
鵜殿氏長松平元康(後の徳川家康)が今川に反旗を翻した時、駿府城には妻子が人質として残されていました。家康は妻子を取り戻すため、元康は上之郷城の城主今川家臣鵜殿長照を討ち、息子の氏長・氏次を捕らえます。
人質交換により元安の妻子は岡崎へ、鵜殿氏長・氏次兄弟は今川氏へ引き渡されました。
1568年、家康が遠江に侵攻すると、旧領安堵と引き換えに家康家臣に。
城主 城山塔子大河ドラマ『どうする家康』で、鵜殿兄弟が瀬名・竹千代・亀姫と川を挟んで人質交換される場面は印象的でした。
- 1564年
-
家康が三河を平定すると、今川氏は笹岡本城の機能を二俣城に移します。
徳川氏時代の二俣城
永禄11年(1568)、徳川家康は遠江侵攻を本格化させ、二俣城を支配下に置きました。家康は鵜殿氏長にそのまま二俣城の防備を命じます。
家康は武田信玄侵攻に備えて城の大改修を行いました。
- 堀切の増設、本曲輪増強のための竪堀を三条設置
- 井戸曲輪の設置
- 北東隅が大手、南西隅が搦手に
- 主要曲輪の下段に腰曲輪、帯曲輪状の平地を設ける
二度に渡る二俣城の戦い
元亀元年(1572)、武田信玄が遠江侵攻を開始。二俣城をめぐる激しい戦いが起こります。
1572年:第一次二俣城の戦い
武田信玄は勝頼を総大将にして二俣城を攻めさせます。最初は父信玄の意見に従って力攻めをするもなかなか落ちません。
そこで山県昌景・馬場信春の作戦に切り替え、水の手を壊すことにしますが、二俣城には井戸がないことが判明。
井戸ではなく天竜川から水を組み上げているのを知り、天竜川の上流から筏を大量に流して水を汲み上げている井楼櫓を破壊し、ようやく勝利。
武田軍は二俣城の攻略に2ヶ月。武田信玄は二俣城を修築して南下を開始し、三方ヶ原の戦いへ。
武田氏の時代に行われた城の改修は以下の通り
- 本曲輪と南曲輪を分断する堀切の新設
- 南側に2箇所の堀切新設
勝頼は徳川軍の行動監視と、遠江・東三河に対する駐屯基地として二俣城を使用しました。
1575年:第二次二俣城の戦い
長篠城の合戦後、二俣城・光明山城の攻略に着手。
徳川軍は鳥羽山城に本陣を置き、北に蜷原砦、東に毘沙門砦、西に和田ケ島砦を築き、兵糧攻めにします。また、退路遮断のため、光明山城を攻撃して陥落させました。
7ヶ月目、ついに兵粮がつき、二俣城を開城しました。
二俣城を奪還した家康は、大久保忠世を配置。天野氏攻めを行い、北遠江から武田勢力を一層。光明山城、入手城、樽山城にも拠点を設けます。
大久保忠世の領有期間は天正18年(1590)の関東移封までの18年におよびます。
徳川家康の嫡男信康が切腹を命じられて自刃し、家康正室の築山殿が暗殺された事件(自害説もあり)があります。
この事件は謎が多く、
- 武田氏への密通疑惑説
- 父子の不仲説
- 派閥闘争説
などの説がありますが、本当のところはどうなのか、真相は闇の中。
家康の時代には、まだ石垣も天守もありません。
堀尾氏の時代
1590年に徳川家康が関東に移封されると、堀尾吉晴の弟宗光が入り、浜松城同様の改修が行われます。
- 石垣の形成
- 天守の建設
- 瓦葺きの建物の建設
上記のような改築が行われ、城は軍事的色彩が強くなります。
関ヶ原の戦い後
関ケ原の戦い後、松平忠頼が二俣後を支配していましたが、城主は定かではありません。
二俣城は軍事的重要性も政庁としての役割も失い、遅くとも元和元年(1615)の一国一城令以前に廃城となっています。
軍事的重要性は薄れ、交易拠点へと経済的な拠点となり、幕府直轄領として二俣地域は中泉陣屋の代官が統治するようになりました。
二俣城へのアクセス
- 二俣城から鳥羽山城
- 鳥羽山城から二俣城
に行く道があり、簡単に行けますが、坂がきついです。
鳥羽山城へは坂があまりにきつすぎたので途中で諦めて引き返し、車で行きました。
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