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上ノ郷城の歴史を紹介―今川方の三河進攻拠点

蒲郡一帯を支配していた鵜殿うどの氏惣領家である上ノ郷かみのごう鵜殿家の居城。

松平元康(後の徳川家康)は、城主鵜殿長照ながてるの息子二人(氏長・氏次)を上ノ郷城合戦で生け捕り、駿府に人質として捕われていた元康の妻子(瀬名・竹千代・亀姫)と人質交換により、妻子を取り戻すことに成功します。

別称
城地山城
天守
最初の城の築城者不明
最初の城の築城年代不明

現在の上ノ郷城の多くはみかん畑など、耕地として利用されている部分が多いのですが、曲輪や土塁などがよく残っています。

上ノ郷城の魅力
上ノ郷城の魅力

独断と偏見による上ノ郷城の魅力

  • 松平元康が反今川の姿勢を明らかにする
  • 甲賀忍者の活躍によって落城
  • 鵜殿長照の息子二人を捕らえ、元康の妻子と人質交換

本記事では、上ノ郷城の歴史について紹介します。

上ノ郷城の見どころと御城印については、こちらをご覧ください。

目次

上ノ郷城の歴史

蒲郡市西部公民館には、上ノ郷城の復元模型が展示されています。

上ノ郷城復元模型
上ノ郷城復元模型

元々小学校においてあった模型が、期間限定で公民館に展示されています(2024年1月7日現在)。展示期間終了後、再び小学校に戻すのか、あるいは公民館で展示し続けるのか、まだ未定だそうです。

鵜殿長照の墓

鵜殿長照の墓

公営墓地の片隅にひっそりとたたずむ鵜殿長照の墓。

上ノ郷城から歩いて5分ほどの距離にありますので、訪れた際はついでに行くと良いでしょう。

鵜殿氏は松平家とも縁戚関係にありましたが、駿河の今川氏とも縁戚関係にありました。

鵜殿長照の妻は今川義元の妹。そのため上ノ郷城は今川氏にとって、三河における有力拠点の一つでした。

上ノ郷城の戦い時、鵜殿家中は惣領家方と松平元康方に二分して戦っており、どちらが勝っても家は存続できるようししていました。松平方についた鵜殿家は、旗本として続いています。

城主 城山塔子

お家存続のために家中を二分することは、戦国時代にはよくあることです。

永禄5年(1562)2月

鵜殿長照と竹谷城の松平清善きよよしが戦いますが、決着はつきません。ちなみに、鵜殿長照は松平清善は異父兄。

松平元康が出馬し、名取山に布陣。これに松井忠次、久松俊勝ひさまつとしかつが加わり、上ノ郷城を攻撃します。

しかし城はなかなか落ちません。

忍びの者(甲賀こうか衆)が搦手からめてから城内に忍び込み、火を放ち、城主鵜殿長照を討ち取り、城はやっと落城。この功績から、甲賀衆の伴与七郎ばんよしちろうは元康から感状を与えられています

徳川家康公

この戦いは、わしにとって反今川の立場をより明らかにし、三河統一に向けた意志を周囲に知らしめるための重要な戦いじゃったんじゃよ

「鵜殿坂」の伝説

上ノ郷城の東側に「鵜殿坂」と呼ばれる坂があります。

「城が落城してしまい、逃げる長照は途中で転んでしまい、転んだところを討ち取られてしまった。その場所が鵜殿坂。この坂に残された長照の怨念により、この坂で転ぶとケガが治りにくい」

ガイド

これはただの伝承にすぎません。坂ではなく城で討ち取られたとするのが通説です。

この戦いで鵜殿長照の2人の息子、氏長と氏次が捕らえられ、駿河に人質となっていた妻子と人質交換します。

上ノ郷城落城後、城は元康の義理父である久松俊勝ひさまつとしかつに与えられます。しかし俊勝は岡崎城に詰めていたため、実際には息子の康元が代わって城主を務めていたと言われています。

『どうする家康』第6回では、家康が実母の於大の方から、

於大の方

見事攻め落とした暁には、上ノ郷城、我が夫にお与えください。

なんてせがまれて、キョドっている場面がありました。

『どうする家康』では服部半蔵正成率いる伊賀衆も活躍していますが、伊賀衆が活躍するのは後期の文献であるため、後の時代の創作ではないかと考えられています。

人質交換で今川氏真に引き渡された鵜殿兄弟は、後に徳川家臣となり、鵜殿氏長は一時二俣城主に任じられています。その後も徳川家の旗本として存続しています。

天正18年(1590)

家康の関東移封にともない、上ノ郷城は廃城になります。

上ノ郷城へのアクセス

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