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吉田城(今橋城)の歴史―酒井忠次が基礎を造り上げた

朝倉川が豊川に注ぐ場所に立つ平城で東三河の中心地。

かつては今川氏と松平氏(後の徳川氏)が争奪戦を繰り広げた水城でした。

別称今橋城いまばしじょう
城地平城
城郭構成半輪郭式
石垣野面積み、一部打込み接ぎ
最初の城の築城者牧野古白まきのこはく
最初の城の築城年代1496年頃

徳川家康の重臣酒井忠次が西三河の旗頭として吉田城を与えられ、城主を務めていました。酒井忠次は、はじめて城を与えられた徳川家臣。

徳川家康が関東に移封されたあと、池田照政が豊臣方大名として入封し、近世城郭へと大改修を行っています。

池田照政は吉田城にいた頃は「照政」を名乗っており、姫路に移封されてから「輝政」を名乗るようになりました。本記事ではそれに習い、吉田城時代は照政とします。

あまり知られていないことですが、吉田城の本丸の櫓はすべて三重櫓、二の丸は二重櫓、三の丸は櫓なしと、城郭の理想形を実現している希少な城。三重櫓が5基もあった大城郭でした。

城主 城山塔子

小学生の頃、ここで写生大会が行われ、城をよく描いていたものです。我がふるさとの城。写生大会は今も行われているのかな?

独断と偏見による吉田城の魅力

  • 徳川家康が、はじめて家臣(酒井忠次)に与えた城
  • 池田照政が近世城郭に大改修
  • 全国屈指の縄張り面積
  • 豊橋駅から路面電車に乗って簡単に行ける行きやすさ

本記事では、吉田城の歴史を紹介します。

目次

吉田城の歴史

吉田城復元模型
吉田城復元模型。ここの櫓はすべて三重櫓

吉田城のある場所は、東海道と豊川を利用した水運が交差する交通の要衝。

室町時代に豊川の流れが変わり、渡し船ではなく橋をかけられるようになりました。「今」「橋」が掛けられたということで、「今橋」と呼ばれるようになりました。

牧野氏時代

豊橋平野の牧野氏、田原の戸田氏が二大勢力で、お互いに争っていました。同じ頃、駿河の今川氏親も三河に勢力を伸ばしていきました。

今橋城は戸田氏との軍事境界線近くに築いた最前線。戸田氏は明応2年(1493)に二連木城を築城しており、それに対抗して牧野古白が今橋城を築城しました。単郭ではなく、大規模な堀のある城郭構造でした。

永正3年(1506)

牧野氏に圧迫された戸田憲光が今川氏親に救援を要請。それに応える形で出陣し、三河侵攻を開始。書状から、今橋城には本城、堀、堀岸、端城があったことが分かっています。攻略に75日を要し、堅固な城だったと思われます。

このとき牧野古白は討死し、子孫670名も討死します。

永正5年(1508)

今川軍は戦いに敗れて三河から撤退。船形山城に守備兵を置きます。その後戸田氏が船形山城を奪取するも、今川軍が攻めてきたため、戸田氏は降伏。

このころより牧野氏が息を吹き返し、今橋城も復興。しかし戸田氏に敗れて今橋城を失い、本拠地を牛久保城に移します。

今川氏の時代

今川氏の時代に、今橋が吉田に名称が変わりました

天文15年(1546)

今川義元は軍を出し、今橋城を攻撃対象とします。義元の書状から、虎口、外構、宿城があったことが確認でき、龍拈寺が今川軍の陣所になっていました。

天文23年(1554)

今橋城ではなく吉田城と記載されるようになり、今橋宿も吉田宿に変わります。

永禄3年(1560)

桶狭間の戦いにより今川義元が討死。

永禄5年(1562)

今川氏真自身が三河に出陣したとき、吉田城で指揮を取っていたと考えられています。

永禄7年(1564)

遠江での内乱(遠州忩劇そうげき)が長期化したため、松平元康優勢が確定。二連木城の戸田氏も松平方に転じました。

酒井忠次の時代

酒井忠次
酒井忠次 Public domain, via Wikimedia Commons

酒井忠次は、家康が関東移封するまで、20年以上に渡って統治していました。

吉田城の縄張りは、ほぼ酒井忠次時代のものです。酒井忠次時代の縄張りを基に近世城郭に改修したのが、池田照政です。

吉田城には土塁と堀がよく残っており、酒井忠次時代の薬研堀やげんぼり跡も見つかっています。

酒井忠次は20年以上の長きにわたり東三河を統治していたため、地域の人々は「吉田城代」ではなく「吉田城主」としてみていたことが史料から伺えます。

吉田城城下の豊川では、エビがよく捕れました。

酒井忠次

わしのエビ掬いの元ネタは、吉田城下で捕れるエビなんじゃ。岡崎城ではなく、本来は吉田城なんじゃぞ!

ガイド

本来は吉田城なのに、岡崎に「エビ掬い」を取られちゃったんだよね。

忠次家臣の国衆たちは吉田城の傍に屋敷を構え、吉田城に客人が訪れた時は客人の宿所として屋敷を提供することもありました。

織田信長をここでたびたび接待したという記録が残っています。

永禄8年(1565)3月

酒井忠次が吉田城に入り、地域支配を進めていきます。

永禄9年(1566)

牛久保城の牧野氏が家康に帰参。東三河は家康の領国になりました。

天正2年(1574)6月

武田勝頼が高天神城を攻めているという知らせを受け、これを支援するために織田信長が吉田城に到着したことが、『信長公記』に記されています。

徳川家康公

だけど、援軍が高天神城に到着する前に、高天神城は開城しちゃったんだよね。

高天神城について、詳しくは下記で紹介しています。

天正2年(1575)4月

武田軍は足助城を落とし、東三河へと進軍。二連木城で徳川方と戦い、吉田城に迫ります。家康はこのとき浜松から吉田に来ており、迎え撃つために軍を出すもあまりの軍勢に吉田城に引き返します。

吉田城がなかなか落ちなかったため、勝頼は吉田城を落とすことを諦め、北に向かって長篠城を攻撃。家康は信長に援軍を求め、織田軍は岡崎→牛久保→長篠へ。

長篠城について、詳しくは下記で紹介しています。

池田照政(輝政)時代

鳥取県立美術館所蔵品。Tottori prefectural art museum,Japan, Public domain, via Wikimedia Commons
鳥取県立美術館所蔵品 Public domain, via Wikimedia Commons

池田照政が吉田城に入ったときは27歳。豊臣系家臣ではありますが徳川家康とも親しく、後に家康次女の督姫とくひめを妻に迎えており、家康にとって照政は娘婿。

池田照政は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と三英傑に仕え、可愛がられた武将です。

照政の吉田城時代は10年。この間に中世城郭だった吉田城を近世城郭に改修します。在地の屋敷地の統廃合を進め、在家家臣たちを城下町への移住を促進。城と城下町の整備に努めます。

ガイド

吉田大橋が最初に架橋されたのは、池田照政の時代だったんだよ。

慶長3年(1598)

豊臣秀吉死去。東軍と西軍の戦いが各地で展開されるようになります。照政は家康の娘婿として活躍し、家康に味方した諸将が人質を吉田城に入れています

照政自身は福島正則らと岐阜城を落としています。

慶長6年(1601)

池田照政は、吉田城から播磨の姫路城に移封になりました。

ガイド

吉田城がまだ改築中の段階で姫路に行っちゃったのよね。姫路城に行くと、吉田城での経験があったからこそ、姫路城ができたことがわかるのよ。

江戸期の吉田城

池田照政の時代は15万石もありましたが、江戸時代の藩主は多くても7万石程度の大名。石高の割に城郭の敷地面積が広くいため、管理に四苦八苦していました。

ガイド

天守がないのは遠慮したためと言われているけれど、本当は経済的に難しかったからじゃないかしらね。

吉田城は出世城であったため、譜代大名たちが短期間に入れ替わります。

しかし転封は大名にとっても領民にとっても負担が大きいため、天明8年(1788)に転封反対運動が領民の間で起こり、以後、転封はなくなりました。

これ以降、大河内松平氏以降の藩主は、幕府の要職についても転封されることはなくなりました。

歴代城主は幕府の要職につくことが多かったため、国元に滞在することは殆どありませんでした。

江戸に張り付いていたことが多かったから国元に帰ることはほとんどなくて、参勤交代もあまりしていなかったんだ。

吉田城へのアクセス

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