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沓掛城の見どころと御城印を紹介―今川義元が桶狭間の戦い前夜に宿泊した城

沓掛くつかけ城といえば、桶狭間の戦いが発生した日の前夜、今川義元が宿泊し、評定を行った場所と言われているところです。

標高約21mのちょっとだけ小高い場所に築かれた中世城館。築城時期等についてはよくわかっていませんが、14世紀頃に近藤宗光が初代城主として住んだとされています。

現在沓掛城は、「沓掛城址公園」として整備されており、訪れやすくなっています。

城地平城
天守
城郭構成連郭式
最初の城の築城者近藤宗光?(諸説あり)
最初の城の築城年代1400年前後

旧鎌倉街道を監視する位置にあり、周囲よりほんの少しだけ高い場所になっています。

独断と偏見による沓掛城の魅力

  • 桶狭間の戦いの遠因
  • 桶狭間の戦い前夜、今川義元が宿泊したと言われる
  • 旧鎌倉街道をおさえる要衝

本記事では、沓掛城の見どころと歴史を紹介します。

目次

沓掛城の見どころ

現在は本丸と二の丸といった一部の曲輪が「沓掛城址公園」として整備されています。

駐車場はすでに城内。侍屋敷跡と二の丸が駐車場になっています。

二の丸は一部だけが残っているよう。

沓掛城本丸
沓掛城本丸

大手門側から見た本丸。井戸があり、左手に見える森は諏訪曲輪で、本丸よりも少し高くなっています。

桶狭間の戦い前夜、今川義元が宿泊したのが沓掛城と言われています。

その時今川義元が引き連れていた軍は2万5千と言われていますが、とてもそのような大軍が整列し、宿泊できるような広さがあるとは思えません。

城主 城山塔子

ここに宿泊したのは義元とその側近のみで、他の兵卒たちは他の場所に陣を張っていたのだろうか?

左に本丸の東屋、右側に菖蒲

かつての二の丸は、南側の一部が広場になっており、北側は菖蒲が植えられています。

写真は冬なので、植物の様子は何もわかりませんが、菖蒲が植えられているのでしょう。

沓掛城の堀

菖蒲の先の撫子花(堀)。写真は冬なので何もありませんが、夏には撫子が咲いているのでしょうか?

堀と土塁、切岸の様子がよくわかります。

堀にかかる良い感じの橋を渡った先は、諏訪曲輪。

神社か何かありそうな雰囲気でしたが、その先の諏訪曲輪には何もありませんでした。

応永32年(1425)に諏訪大社より分霊した諏訪神社が創祀そうしされていたと伝えられているそうなので、かつてはやはり神社があったようです。現在神社は他の場所に遷座されているため、ありません。

木々が生い茂っているので、見晴らしはよくありません。木がなかったとしても、それほど高くはないので、見晴らしはそれほど良くないと思われます。

沓掛城侍屋敷跡

侍屋敷跡

侍屋敷は広場になっている部分と、公園駐車場になっている部分があります。

写真は広場になっている部分です。

沓掛城の御城印

沓掛城の御城印

沓掛城の御城印

沓掛城の御城印は、豊明市役所2階18番窓口の産業支援課で購入できます。

市役所なので、平日しかやっていません。

城主 城山塔子

たまたま有給を取って名古屋に行く用事があったついでに、立ち寄りました。

御城印をご購入していただいた方に、(桶狭間古戦場まつりの)クリアファイルと桶狭間の戦い縁の3名所のカードを差し上げております。

  • 沓掛城公園
  • 桶狭間古戦場伝説地
  • 戦人塚
豊明市三名所

桶狭間の古戦場と伝わる地は、豊明市の桶狭間古戦場伝説地の他、名古屋市の桶狭間古戦場公園があります。

そのどちらが本当の桶狭間の古戦場だったのかというと、

  • 江戸時代に入り時代が下るにしたがい豊明市の伝説地の方を採用する文献が増える
  • 豊明市の伝説地は東海道に近く観光に便利

ということから、近年は名古屋市の古戦場公園の方が実際の戦場だったと考えられています。

戦人塚は桶狭間の戦いで戦死した兵士を供養した場所だと伝えられている場所です。

城主 城山塔子

真偽の程は関係なく、戦国好きなら一度は訪れてみたい場所であることに変わりはありません。

宝島社
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沓掛城が登場する大河ドラマ

桶狭間の戦い前夜に今川義元が宿泊した沓掛城。桶狭間の戦いをしっかり描いたものであれば、沓掛城は登場します。

どうする家康

どうする家康第1回「沓掛城で舞を舞う今川義元」

第1回「どうする桶狭間」。沓掛城で舞を舞う今川義元。

今川義元を演じる野村萬斎さん本職の舞が見られたと、たいへん評判の良かった場面です。

城主 城山塔子

眼福、眼福♪

沓掛城の歴史

沓掛城絵図
沓掛城絵図

沓掛城は、古絵図を見ると、かつては丸馬出があり、総構えのそこそこの規模の城だった模様。総構えまで含めると、東西約290m、南北約234mあったらしいです。

絵図と比較すると、現在の沓掛城は本丸、二の丸、諏訪曲輪、侍屋敷以外は原型をとどめていないことがわかります。

14世紀頃

近藤宗光が初代城主として住んでいたとされています。

応永32年(1425)

5代城主近藤義行が諏訪大社を建てます。

天文10年(1541)

織田信秀が勢力を拡大してくると、9代目近藤景春は織田氏の傘下に入ります。

天文20年(1551)春

鳴海城城主山口左馬助教継やまぐちさまのすけのりつぐは、大高城の水野忠守、沓掛城の近藤景春とともに今川方に寝返ります。今川方からの調略があったのではないかと考えられています。

城主 城山塔子

沓掛城が今川方だったから、沓掛城に宿泊したのか。

沓掛城―大高城―鳴海城を結ぶと、織田方が知多半島へ出るルートが遮られ、織田方にとって苦しい状況であったことがうかがえます。

永禄3年(1560)5月

今川義元は2万5千の大群を引き連れて尾張進攻開始(尾張進攻ではなく、大高から三重県の桑名へと海を渡って上洛を目指していた説もあります)。17日に池鯉鮒ちりゅう(知立)城、18日に沓掛城に宿泊。

19日、今川義元討死。

21日、沓掛城は織田勢の攻撃を受け落城します。その後、桶狭間の戦いで戦功をあげた簗田やなだ出羽守政綱が沓掛城を与えられ、城主となります。

天正3年(1575)

簗田氏が他の城主となったため、織田越中守信照、川口久助が城主になっています。

慶長5年(1600)

関ケ原の戦いで西軍についたため改易となり、城は廃城になります。

沓掛城へのアクセス

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