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大高城・丸根砦・鷲津砦の見どころと御城印、歴史など―松平元康が兵糧搬入

大高おおだか城といえば、桶狭間の戦いのときに松平元康(後の徳川家康)が兵糧を運び入れたことで知られる城。

知多半島の付け根、脊梁せきりょう山地の丘陵地に築かれた東西約103m、南北約32mの城です。

城地平山城
城郭構成梯郭式
天守
最初の城の築城者花井備中守?
最初の城の築城年代1504~21年?

大高城の築城者と築上年について、正確にはわかっていませんが、古くから城として使用されていました。

鷲津砦と丸根砦に関しては、大高城を今川に奪われた織田氏が大高城を奪い返すために包囲網として築城した砦です。

大高城の魅力

独断と偏見による大高城の魅力

異論は認める

  • 松平元康(後の徳川家康)が桶狭間の戦いで兵糧を運び入れた
  • 兵糧を運び入れるだけでなく、丸根砦を落とした
  • 歴史を変えた桶狭間の戦いの前哨戦の一つが行われた場所
  • JR駅に近く、行きやすい

本記事では大高城と丸根砦、鷲津砦の魅力を紹介し、大河ドラマでの出場場面、御城印、歴史も紹介します。

目次

大高城・丸根砦・鷲津砦の見どころ

大高城、鷲津砦、丸根砦の位置関係
大高城、鷲津砦、丸根砦の位置関係

松平元康が大高城に兵糧を運び入れるためには、まず、織田軍が守る鷲津砦と丸根砦を攻略する必要がありました。

大高城、鷲津砦、丸根砦はすべて歩いて廻れる距離にあります。

城主 城山塔子

歩く速さにもよりますが、私は3つの砦を廻るのに、約2時間かかりました。人によっては1時間ぐらいとも聞きます。

後の時代に作成された偽地図との評価もありますが、当時の地形を想像する参考にはなります。

大高城

大高城は、現在公園として整備されています。

大高城本丸
大高城本丸

今は樹木が生い茂って眺めは全くよくありませんが、戦国時代は眺めを良くするために木は伐採されてなかったはずなので、眺めは良かったはずです。

だだっ広い平地が広がるだけの場所ですが、かつてはここに駐屯基地となるような建物があったことでしょうし、それなりの兵士を収容できたと思われます。

大高城城山八幡神社

城山八幡神社

本丸の一段高くなっている場所に神社があります。

一段高くなっていることから、かつてはやぐらがあった場所なのかもしれません。

大高城の堀

400年以上の歳月で堀はだいぶ浅くなっているとは思いますが、かつては険しい堀になっていたはずです。

『どうする家康』第1回で家康こと元康が掘りに大高城の堀に逃げ込むシーンがあります。その場面はここだったのだろうかと、妄想膨らみます。

大高城の休憩場所

堀を隔てて土橋で本丸とつながる場所。

二の曲輪には、ちょっとした休憩スポットがあります。木々が生い茂っているため眺めはよくありません。

木の合間から見える景色は、戦国時代は海だったんだろうなと妄想広がります。

大高城児童公園

二の曲輪だった場所は、児童公園になっています。

大高城からの景色は決してよくありませんが、児童公園のすべり台の上に登って、なんとか大高城から見た鷲津砦と丸根砦を確認できました。

丸根砦

丸根砦
丸根砦

大高緑地公園のすぐ近く、急坂を登っていった先に丸根砦があります。

大高城とは約800mしか離れていません。

小山の山頂に、石碑が立つのみです。

鷲津砦

鷲津砦は丸根砦に比べ大規模で。鷲津砦公園として整備されています。

鷲津砦があったであろうという場所に石碑が立っていますが、発掘調査などは行われていないため、実際にはどこに鷲津砦があったのか確定されていません。

正確な場所は分からなくても大雑把な場所さえ分かれば、歴史ロマンを掻き立てさせるには十分です。

大高城の御城印

大高城・鷲津砦・丸根砦の御城印
大高城・鷲津砦・丸根砦の御城印

大高城、鷲津砦、丸根砦の御城印は、三枚一組で販売されていました。並べると、織田家の家紋が繋がります。

御城印の販売場所

御城印は、大高観光案内所で販売されています。

大高城・鷲津砦・丸根砦を結ぶ三角形の外側になってしまうので、ちょっと面倒くさいと感じるかもしれません。

駐車場はありませんので、歩いて買いに行ってください。

城主 城山塔子

鷲津砦から大高城に向かう途中、ちょっと遠回りをして買いに行きました。

大高城が登場する大河ドラマ

桶狭間の戦いの一部である松平元康の大高城への兵糧入れ。家康が主役のドラマに出ないわけがありません。

どうする家康

大高城

大高城遠景

CGで当時の地形と大高城の様子を再現したものです。「大高」の地名の通り、付近一帯に比べて高くなっており、よく表現されていると思います。

大高城に迫りくる織田軍

こちらは空中からではなく、地上から見た大高城をCG再現してます。

城周辺の樹木は伐採されているため、禿げているのが正解。

本多忠勝初登場シーン

大高城を逃げ出し、海に入ろうとする元康を本多忠勝引きずり戻す場面は浜辺(ちなみに撮影場所は愛知県田原市らしい)。

現在の大高城周辺地図を見る限り近くに海がないため、

大高城の近くに海なんてないのに、なんで海?

と疑問に思った方がいらっしゃったようです。しかし当時の海岸線を考えれば、城のすぐ近くに海岸線があり、遠浅の海が広がっていました。

大高城の歴史

今は開発などで城域ですが、かつてはもっと大きかったらしいことが絵図からわかります。

大高城古城絵図
大高城古城絵図 国立国会図書館, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で
天文2年(1553)春

鳴海城城主山口左馬助教継やまぐちさまのすけのりつぐは、大高城の水野忠守沓掛城の近藤景春とともに今川方に寝返ります。今川方からの誘いがあったと考えられています。

水野忠守と家康の母である於大の方は兄弟の間柄。つまり家康から見て叔父になります。

城主 城山塔子

名前からピンとくる人は多いかも。

織田信長は策略によって、山口氏を今川方の手によって刺殺。

その後、今川義元は鳴海城には岡部元信を、大高城には鵜殿長照といった今川精鋭部隊を入城させ、防備に就かせます。

鳴海城、大高城、沓掛城が今川方に寝返ったことにより、織田方にとっては清須と知多郡が遮断されます。織田方の経済拠点である熱田港をうかがう場所であり、尾張進攻の前線基地としました。

織田方も黙ってはいません。丹下砦を築いて水野帯刀たてわきらを、善照寺砦を築いて佐久間右衛門を、中島砦を築いて梶川平左衛門、丸根砦を築いて佐久間重盛を、鷲津砦を築いて織田秀敏と飯尾近江守を配備。

永禄3年(1560)5月

今川義元は2万5千の大群を引き連れて尾張進攻開始(尾張進攻ではなく、大高から三重県の桑名へと海を渡って上洛を目指していた説もあります)。17日に池鯉鮒ちりゅう(知立)城、18日に沓掛城に宿泊。

18日夜、義元は松平元康に鷲津砦を、朝比奈泰朝に鷲津砦を先攻攻撃を命じます。19日夜明けに両者は、兵糧を無事に搬入し、砦を攻略します。

鷲津・丸根砦襲撃の知らせを早馬による伝令を聞いた信長は飛び起き、兵を結集させ、翌朝清州城を出陣。午前8時頃熱田神宮に到着。

織田信長

織田家の命運が掛かっている。ここで義元を討つ!

一方、おけはざま山に到着した今川義元の下には、鷲津・丸根砦の敵将の首が届けられました。

永禄3年5月19日

今川義元討死。

松平元康の兵糧入れ

兵糧として運び入れたもの
  • 馬:200頭以上
  • 米:450俵

その他馬粮や武具も搬入

朝比奈、三浦両大群が厳重警戒を受け持ってくれる中、大高城に運び入れたと考えられています。

徳川家康公

大高城に兵糧を運び入れるだけでなく、丸根砦を落とせという任務があってのう。義元に三河勢が酷使された戦いだったよ。

織田軍が満潮のため援軍に来ないことがわかり、部隊を

  1. 正面攻撃隊
  2. 遊撃隊
  3. 馬廻隊

の三隊に分けて鷲津砦を攻撃。砦を守る佐久間重盛は城門を開いて打って出て、壮絶な戦いとなります。

佐久間盛重は、騎兵わずか400騎ほどで砦を守っていました。盛重は決戦の前に家臣たち逃がそうとしましたが、家臣たちはこれを拒否。

佐久間盛重とともに、10時頃にほぼ全滅しました。

鵜殿長照は長いこと大高城の番をしていたので、替わりに元康がそのまま大高城に置かれることになります。

大高城で義元討死の知らせを聞いたものの、なかなか信じることができなかった元康ですが、水野信元の使いの案内でようやく大高城を後にします。

徳川家康公

これでやっと駿河から独立できた。義元からもらった「元」の字を捨てて、元康から「家康」と名を改めたよ。

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大高城へのアクセス

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