『どうする家康』第3回のタイトルは「三河平定戦」。
故郷の岡崎へ戻った松平元康(松本潤)は、打倒・信長(岡田准一)を決意するが、弱小の松平軍はまったく歯が立たない。一方、今川氏真(溝端淳平)は援軍をよこさず、本多忠勝(山田裕貴)らは、織田に寝返るべきと言い始めるが、駿府に瀬名(有村架純)を残す元康は、今川を裏切れないと悩む。そんな中、伯父の水野信元(寺島進)がある人を連れて来る。それは16年前に生き別れた元康の母・於大(松嶋菜々子)だった。
舞台は戦国時代。当然のことながら多くの城郭たちが物語には登場します。
本記事では『どうする家康』第2回に登場する城郭たちを紹介し、物語の背景などを城郭の観点から補足解説いたします。
第3回の見どころは、妻子のいる駿府に戻りたい元康と、援軍を送ってこない今川を見捨てて織田へつけという家臣たちとの葛藤です。
『どうする家康』第3回に登場する城郭たち
- 駿府城
- 岡崎城
- 刈谷城
- 清州城
- 躑躅ヶ崎館?
- 東条城
今川館(駿府城)
三河に援軍を送りたくてもそれどころではない今川家中。
今川義元亡き後、ばらばらになった国内をなんとか取りまとめようと氏真は必死だったのだろうけど、配下の国衆たちはどんどん離れていってしまっていました。
駿府城の下に眠る今川館。発掘調査で建物跡は見つかっていますが、その全貌は不明。
岡崎城
岡崎城を訪れる於大の方。本丸にある屋敷なのか、それとも他の曲輪なのか。
家康が生まれたのは坂谷曲輪にある屋敷とは言われていますが、出産と生活は別の場所のこともあります。
家康好きなら一度は訪れたい岡崎城。周囲には家康ゆかりの見どころがたくさんあります。
刈谷城(苅谷城)
刈谷城で博打をする水野信元と久松長家
刈谷城はすぐ傍に川が流れている平城。川の水を利用した水掘が当時もあったのだと思います。
刈谷城は低地の湿地帯にある平城。現在は亀城公園として整備されており、市民の憩いの場となっています。
現在の刈谷城は、明治時代の廃藩置県により建物は取り払われてしまっているため、何もありません。水堀の名残と思しき池と水路があります。
建物はありませんが、城の建物を再建しようという計画はあるようです。
再建活動は楽しみでしかない。
清州城
信長のいる場所がどことはドラマには出てきませんが、おそらく清州城。
現在の清洲城天守は模擬天守。信長時代に天守はなく、清洲城に天守が建てられたのは信長の次男信雄の時代。
清洲城の城域は東海道新幹線の線路によって分断されてしまっています。現在の天守はもともと天守があった場所ではなく、本来は線路近くにありました。
躑躅ヶ崎館
ドラマでは居場所の名前は登場しませんが、武田信玄がいる場所は、きっと躑躅ヶ崎館。
神秘的な雰囲気になっているのが良き。
東条城
最後に炎上して落城する東条城がでました。
現在、東条城は公園として整備されています。土塁や柵が復元されており、中世の城がどうやって敵の侵入を防いでいたのか、想像しやすくなっているところが良いです。
今ある土塁でもそれなりに高いのですが、戦国当時の土塁は今よりも数倍高かったと考えられています。
土塁と堀で敵の侵入を防ぎ、柵の内側から城兵たちが弓矢で迫りくる敵を倒していたのだと、想像力を掻き立てられます。
第3回「三河平定戦」あらすじ
今川氏真からの手紙を読み、「わしは氏真様の側近になるんじゃ」と喜ぶ元康であったが、
織田勢を打ち払ったら、我らだけで三河を平定せよと。
という数正の言葉に驚きながら、手紙を読み返す元康。三河を平定しない限り、駿府には帰れないことを知ります。
- 瀬名
- 巴
- 松平元康
- 今川氏真
- 酒井忠次
- 石川数正
- 鳥居忠吉
- 鳥居元忠
- 平岩親吉
- 於大の方
- 織田信長
- 本多忠勝
- 夏目広次
- 大久保忠世
- 本多忠真
- 登与
- 久松長家
- 吉良義諦
- 関口氏純
- 今川義元
- 武田信玄
- 水野信元
- たね
- 山県昌景
- お富
- 水野信元のいる刈谷城を攻めるも、惨敗
- 元康の帰りを待つ瀬名が第2子亀姫を出産
- 吉良義昭と手を結んで刈谷城を攻めるも惨敗
- 元康の下を水野信元と於大の方が訪れ、「今川を見捨てて織田方へつけ」と説得される
- 忠次と数正に、領民たちは今川支配下ではなくなったことを喜んでいると教えられる
- 吉良義昭の東条城を落とす元康
- 松平元康離反の知らせを受け、ショックを受ける氏真と処刑される人質の三河衆
主君たるもの、家臣と国の為ならば己の妻と子ごとき平気で打ち捨てなされ!
於大の方のこのセリフは、後々の伏線にもなっています。
喧嘩をする松平家中
元康とともに駿府で育った鳥居元忠と平岩親吉は今川様の助けはきっと来ると信じていますが、そうではない本多忠勝と喧嘩になります。
打首覚悟で必死に懇願する酒井忠次と石川数正
今川のためには戦うとなれば兵は集まりませぬ。
三河の衆はとっくに今川を離れています。三河のため、松平のため。
最終的には泣きながら、今川からの独立を決心する元康。
ご譜代の人々は十年余、年貢米をあたえられるわけもなかった。「(中略)譜代の者どもが餓死しそうなようすだ。かれらにせめて食べる分だけでも与えたい」(中略)譜代の衆はだれもが自ら田を耕し、年貢米を納めて、百姓同然に(中略)わが身を過ごした。
『三河物語』
今川の元で家臣たちは苦しい生活を強いられていたのだから、今川に対する忠誠心なんて、最初からなかったのかもしれません。
第3回「三河平定戦」の感想
家康はわざと反対のことを言って、家臣たちを思っている方向へと向かわせた。
と伝わっています。
ドラマではそんな描き方はされていませんが、元康が妻子の待つ駿府に帰りたがれば帰りたがるほど、家臣たちは今川を離れて織田につこうと団結していきます。
妻子のいる駿府に帰るんじゃ。今川様の側近になるんじゃ。
という「今川家臣の一員」として駿府に帰りたがる元康に対し、家臣たちも、母君も、伯父上も、そして領民たちまでも今川を離れて独立することを望んでいます。
初期の頃は家臣に対して主君の力はそれほど強くなかったこともあり、ほぼ対等な関係で意見をぶつけ合っているのが好印象ですね。
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