『どうする家康」第9回のタイトルは「守るべきもの」。
一向宗徒の軍師は本多正信(松山ケンイチ)だった! 泥沼化する戦い、相次ぐ家臣の裏切り、追いつめられた家康(松本潤)が選ぶ選択とは? 三河一向一揆、ついに完結!
舞台は戦国時代。当然のことながら多くの城郭たちが物語には登場します。
本記事では『どうする家康』第9回に登場する城郭たちを紹介し、物語の背景などを城郭の観点から補足解説いたします。
第9回の見どころキーワードは、「苦しみ」です。
『どうする家康』第8回に登場する城郭たち
- 岡崎城
- 本證寺
- 躑躅ヶ崎館?
三河一向一揆の和睦に向けた展開のため、登場する城は岡崎城と本證寺のみです。
岡崎城
CG再現された岡崎城
本丸に屋敷があり、城下にある屋敷は家臣たちが住んでいる曲輪でしょうか?
家康が過ごしていた当時の岡崎城の姿は、ほとんどわかっていません。岡崎城は家康の時代になって、かなり改修されました。
三河一向一揆が勃発したのは、家康の力がまだ弱かった時代。
現在の岡崎城公園よりも小さく、本丸と二の丸、三の丸程度のものだったかもしれません。
堀の場所、曲輪の形、当時の岡崎の地形など、よく再現されています。
現在の岡崎城の姿は家康時代のものではなく、田中吉政や江戸時代の藩主たちの改修によるものです。
本證寺
戦いによって荒れ果てた本證寺
負傷した一揆側の人々が運び込まれており、その度に空誓上人は心を痛めていました。
当時の本證寺がそのまま残っているわけではなく、すべて破壊された上で後に再建されたもの。
「以前は野原だったのだから、以前のように野原にせよ」とおっしゃって堂塔を破却した。
『三河物語』一揆降伏
一度破却されたとはいえ、当時の堀や土塁の一部が今でも残っており、ここが城郭寺院であったことを物語っています。
躑躅ヶ崎館
たとえ現在の城跡がこのような状態の中にあるとしても、当時の城がこんな山深くて大木の生い茂る中にあるはずがないので、多分違うと思います。
軍事施設である城は見晴らしを良くするために、周囲の木は伐採してしまいます。木が生い茂っていたら、そこは侵攻してくる敵にとって、絶好の隠れ場所になってしまうからです。
三河一向一揆が終わり、信玄に報告する千代
「際は織田信長に遠く及ばず、私がこれまで見た将の中で最も肝の小さいお方だと。そのことを己自身がよくわかっておられる。そういうお方だとお見受けしました」
第9回「守るべきもの」のあらすじ
軍師として一揆側についている本多正信は、幼き日のことを思い出す。
幼馴染のお玉の家が物盗りに襲われ、お玉の両親が殺害され、お玉が連れ去られたことを。
8年前、大久保忠世と盗賊を征伐した時、遊び女となっていたお玉と再会。しかしお玉は正信の矢に当たって致命傷を負ってしまっています。正信はお玉を担いでお玉の家、寺内町へと連れて帰ります。
この世は苦しみばかり。はよう、仏様のもとに。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
「南無阿弥陀仏」と唱えながら亡くなったお玉。
- 松平家康
- 瀬名
- 本多正信
- 夏目広次
- 本多忠勝
- 榊原康政
- 酒井忠次
- 鳥居元忠
- 鳥居忠吉
- 大久保忠世
- 平岩親吉
- 本多忠真
- 渡邉半蔵守綱
- 空誓
- 水野信元
- 吉良義昭
- 松平昌久
- (望月)千代
- お玉
- おふう
- おりん
- 服部半蔵
- 石川数正
- 武田信玄
ここに登場する空誓上人は貫禄があって、役者も年配のお坊さんらしく演技をしていますが、当時の空誓上人は史実ではこのとき19歳です。家康は20歳。
- 鳥居忠吉が殿に「家臣を信じることが大切」と説く
- 家康が家臣を信じることにより、家臣たちの士気が一気に高まる
- 戦いは次第に優勢になり、一揆側は追い詰められる
- 人々が亡くなるのを見て、和議の受け入れる空誓上人
- 寺は元通りにすると約束し、裏切った家臣たちも許される
- 家康は自分の過ちを受け入れ、前に進むことを決意
城下を眺めながら、自分の犯した過ちを深く反省する家康。
民たちが苦しむことなく、幸せに暮らせる世の中にしたい思いを強くした出来事の一つとして描かれました。
三河一向一揆で、家康は深く反省したと言われています。
弱いことをなかなか受け入れられない人は多いです。しかし家康は自分が弱いことを知っているがゆえに、家臣たちを頼り、信じたからこそ、後の天下統一につながったのではないでしょうか。
これこそが家康の才能!
第9回「守るべきもの」の感想
家臣たちがばらばらになり、士気も下がっていることに悩む家康の元を鳥居忠吉が訪れ、忠告する場面。
道は2つに1つ。主君が家臣を信じなければ、家臣は主君を信じまへん。(もう一つの道は)謀反の疑いが少しでもある者を殺すことでごじゃる。殺すことにお決めなら、まず、わしからにしてくだしゃれ。
家康の祖父清康の代から仕えていた忠吉。家康の祖父と父が家臣の裏切りによって殺されたことを防げなかったのかと。それを聞いて家康は覚悟を決めたのか、家臣たちのもとへ行き、
わしについて来いとは言わん。好きな主を選べ!わしは、お前たちを信じる!供をしたいものだけ参れ!
家臣団の結束が強まる瞬間。良いですね。
家康に反旗を翻した者たちの処遇の補足説明など
一揆側についた者たちで、家康に許された者もいれば、処分された者もいます。
本多正信
三河を追放された後、加賀一向一揆に加わっています。
後に許されて家康の側近として仕えたのは有名な話。
夏目広次
ドラマでは、
多くの家臣から助命嘆願が出されておる。謀反の罪、不問といたす。
となっていますが、三河物語では、
夏目治郎左衛門尉(由伸)が屋敷城をかまえ、深溝の松平主殿之助殿と戦っていたが、(中略)夏目治郎左衛門尉はやむを得ず蔵の中に閉じこもっていた。家康は松平主殿に使いをおやりになり、「治郎左衛門尉もの城を破られたのは立派なことだ。夏目は敵となり私に弓を引いたことは見にくく思われるけれど、このように閉じ込め、かごの中の鳥のようになさったのなら、殺したのも同じだから、助けてやってください」と言ってやった。
『三河物語』三河一向一揆
となっています。
助命嘆願が家康本人の脚本だったとしても、物語的にはなんの問題もなかったように思っています。
夏目吉信を許したことにより、家臣たちは家康の慈悲深さに感じ入ったことには変わりはありません。
松平昌久と吉良義昭
主君にするとそそのかされて一揆側についた二人。
松平昌久は所領没収となり、跡継ぎもいなかったため御家断絶。どこへ行ったのかわ分からず、行方不明。
吉良義昭は、東条城を明け渡しましたが配下を養うことができなかったため上方へ向かい、六角義賢の配下となりました。
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