東遠江の中心地であり、東海道を押さえる位置、小高い丘陵の南西端にある平山城。
駿府城を逐われた今川氏真が逃げ込んだ城であり、山内一豊が中世城郭から近世城郭へと改修した城で、二の丸御殿が江戸時代から現存していることで有名です。
日本初の『木造復興天守』。
別称 | 雲霧城、松尾城 |
城地 | 平山城 |
天守の種類 | 木造復興天守 |
天守の形式 | 初期望楼型天守、付櫓のある複合式、三層四階 |
天守の階数 | 三重天守 |
城郭構成 | 梯郭式 |
最初の城の築城者 | 朝比奈泰能 |
最初の城の築城年代 | 1512年頃 |
掛川城は天守こそ復興天守ですが、城主が生活していた御殿は江戸時代から続く現存御殿。
現存している御殿は全国で4城しかなく、貴重な存在。江戸時代の藩政や大名の生活が偲ばれます。
掛川城は山内一豊が中世の戦国城砦から織豊系の近世城郭へと改築した城として有名であると同時に、徳川家康が戦国大名今川家を滅亡に追いやった城でもあります。
独断と偏見による掛川城の魅力
- 武田軍に逐われた今川氏真が逃げ込んだ場所
- 戦国大名今川氏が滅亡する掛川城の戦い舞台
- 山内一豊が中世城郭から織豊系城郭に改築
- 二の丸御殿は現存御殿で江戸時代の姿を今に留める
- 初の木造復元天守
- 掛川市街地にある行きやすさ
本記事では、掛川城の歴史を紹介します。
掛川城の歴史
現在の掛川城が築城される以前に、掛川古城(天王山城)と呼ばれる古城がありました。
現在の掛川城の東、約400mの場所にあり、掛川城を見学するついでに足を伸ばして訪れてみるのも良いでしょう。
朝比奈氏時代の掛川城
朝比奈泰熙は掛川古城(天王山城)の築城に続き、新城(掛川城)の築城を始めます。完成したのは2代目泰能の時代の1512年頃。
掛川古城を建築してまもなく、主君の今川氏親にさらに大きな城の建築を命じられ、現在の掛川城を建設することになります。
朝比奈氏は3代続きます。
3代目の泰朝の時代に今川義元が殺され、武田氏に襲撃された今川氏真が駿府城から命からがら掛川城へと逃げ込む事件が発生します。
掛川城の戦い
掛川城の名は、徳川家康が戦国大名今川氏を滅亡に追いやった掛川城の戦いにより、その名を知られるようになりました。
- 1568年12月13日
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甲斐の武田信玄が駿府の今川館を奇襲。
武田軍の攻撃に攻撃された今川氏真は2日後の15日、掛川城に妻とともに逃げ込みました。信玄と同盟していた家康は、時同じくして見附に本陣を移して東進。掛川城を包囲しますが、その堅牢さに一旦撤退します。
今川館は駿府城の下から発見されました。
駿府城の見どころをチェック!―今川氏の元本拠地であり徳川家康の隠居城 駿府城は、今川氏の本拠地「今川館」があった場所に徳川家康が建てた城です。 別称駿府の浮城、駿府の水城城地平城天守天守台のみ城郭構成輪郭式最初の城の築城者近世城… - 1569年1月
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家康は再度掛川城を攻撃。本陣を掛川古城に移して激しい攻防戦を繰り広げます。
両軍とも戦死者多数。氏真は北条氏に後詰を申請する一方で、家康は家臣の奥平定能の進言にしたがい、掛川城に使者を送って和議を提案します。
北条氏は後詰を送ろうとしますが、駿河に侵攻していた武田軍と衝突しており、後詰を送ることができませんでした。
武力ではない外交交渉で開城を促す
掛川城はたいへん堅牢な城で、なかなか落ちません。
そこで徳川家康は今川氏の人質として駿府で過ごしていた時代、同じく人質として一緒に駿府で過ごしていた北条氏規を通し、北条氏と密約を交わします。
今川氏真の嫁さんの実家である小田原で、氏真を保護してくんない?
北条氏が今川氏真を保護するとの約束を取り付けた家康は、それをもって籠城する氏真と交渉をします。
駿河を信玄から取り戻せたら、氏真殿に駿河を返しますから、ここはひとまず開城してくんない?
- 1569年5月6日
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5ヶ月にもおよぶ籠城戦で食料も尽きかけ、疲弊したこともあり、家康からの和議を受け入れてついに掛川城を明け渡します。
氏真は妻の実家である北条氏の小田原城へと向かい、掛川城城主だった朝比奈泰朝は最後まで同行して忠誠心を見せました。家康もまた、家臣の松平定家を同道させて武士としての礼を尽くしました。
徳川家康公寝返る家臣が多い中、朝比奈泰朝は最後まで氏真に従った良き忠臣だった。氏真にも良い家臣がいたもんだ。
戦国大名としての今川氏は、ここで滅亡することになります。
ちなみに、徳川に通じていると訴えられたことに対する申開きをするために駿府へ向かった井伊直親を討った人物が、朝比奈泰朝です。
氏真は北条氏に逃げ込みましたが、武田氏より北条氏宛に「氏真殺害の謀事」が送られてきたことにより、家康の庇護を申し出ます。
今川家臣とともに長篠・設楽原の戦いに参戦して武功を上げ、牧野城(諏訪原城)の城主にしてもらいますが、能力がなかったのか、1年で城主を解任されています。。
1590年、家康の関東移封に伴い氏真も江戸入し、品川に屋敷を与えられ、晩年を過ごします。
和歌の才に秀でており、生涯に読んだ歌の数は1700首以上。
今川氏は文化的素養が高く、江戸時代は公家との交渉をする高家として幕府に仕えますが、明治20年(1887年)に本家は断絶します。
- 1569年
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掛川城開城後、徳川家臣の石川家成が城主になります。
家成の母は家康生母の実姉であり、家康とはいとこ関係。家康人質時代からの家臣であり、三方ヶ原の戦いや高天神城の戦いでも最後まで家康に忠誠を貫き通した人物です。
関ケ原の合戦後、石川氏は大垣城主になっています。
掛川城は家康のものになった段階で、浜松城の支城の一つになりました。
山内一豊の時代―戦国の城から近世城郭へ
山内一豊は45歳から55歳までの10年間、掛川城主を務めました。
山内一豊は城地を拡大し、湿地帯や丘陵地を利用し、城と城下町を土塁で囲む総構え構造にしました。
この時代に天守が建設されます。
- 1590年
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徳川家康を関東移封させると、豊臣秀吉は家臣の山内一豊を近江国の長浜城より遠江の掛川城へ転封させ、家康を警戒させました。
一豊入城時の掛川城は、本丸を中心都市、南側を流れる逆川との間に曲輪があった程度。一豊は城を近代城郭へと増改築。
土塁を巡らせた二の丸、土塁と水堀のある三の丸。北池と逆川を水路で結んで水堀にして城を囲み、曲輪内には武家屋敷を設けました。
城主 城山塔子秀吉の伏見城の建設に直接携わっていた経験と、幾多の戦に参戦し経験が、掛川城の建築に生かされているよ。
逆川の北側の武家屋敷に対し、南側は商工業者を集めた宿場町として整備。交易を盛んにして経済を潤します。
- 1596年
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天守閣が完成します。
- 1600年
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山内一豊は、小山評定の軍議で真っ先に家康に味方することを表明。掛川城を献上すると同時に、他の豊臣方の武将たちに家康の味方になるように働きかけました。
徳川家康公関ケ原の前からいろいろと情報提供をしてくれたり、普段から豊臣系大名を徳川になびかせるような言動をとってくれていたからね。
小山評定での発言が評価され、関ケ原の戦い後、一豊は土佐国(高知県)へと転封となりました。
掛川城と高知城一豊は掛川城にいた時、多くの在郷武士を召し抱えました。高知へ赴任する際は、職人も大勢連れていき、高知城下に掛川町や掛川神社をつくりました。
高知城を建てる時、掛川城をそのまま参考にしたと言われています。戦後掛川城天守を再建する時、今度は高知城をモデルにして掛川城天守を再建しました。
つまり、掛川城をコピーして高知城、その高知城をさらにコピーしたのが(現)掛川城。
山内一豊が計画した掛川城は未完成であり、城外東にある土塁や堀が計画途上の跡ではないかと考察されています。
江戸時代の掛川城
特筆するような城主と出来事は以下の通り。
- 1603年
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松平定勝第7代城主となります。定勝の母は家康の生母於大の方の娘で家康の異父妹。
掛川の城下町は、松平氏の治世の時にさらに整備が進みました。
- 1648年
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北条氏重が17代城主になります。
氏重は家康、秀忠、家光の3代に仕えた家臣。かつて家康が掛川城を攻めたとき、本陣とした古城に家光の霊廟を建て、龍華院として聖地とした人物です。
- 1669年
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朝比奈泰朝に殺された井伊直親の子孫、井伊直好が第18代城主になります。
直親の霊を弔うため、掛川城への移封を幕府に願い出ており、直好の代になってようやく叶いました。
- 1841年
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宝永地震により天守は大破し、再建が試みられましたが、続く安政地震により天守台の石垣が崩壊。財政難により天守の再建を断念することに。
掛川宿周辺はほとんど壊滅状態。
二の丸御殿、櫓5棟が倒壊、門も13棟倒壊。侍屋敷や足軽家の被害も大きく、以後、天守が再建されることはありませんでした。
- 1855年
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二の丸御殿が再建されます。
城主 城山塔子藩主の住居であり政庁でもある御殿はさすがに再建しないと、治められないよね。
明治時代の廃城令から現代まで
明治時代になると、廃城令が出されてしまいます。
掛川城も一部を残して他は民間に払い下げ、あるいは取り壊されてしまいました。
- 大手門三の門→油山寺山門
- 蕗の門→円満寺山門
上記のものは、移築先の寺に行くと見られます。
そんな状況が変わってきたのは戦後。昭和30~40年代に、天守閣復元ブームが全国で盛り上がったときです。
掛川城もその流れを受けて、復興運動が起こりましたが、資金難で一度は断念してしまいました。しかし運動は再び起こります。
- 1977年
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掛川城の古石垣が発見され、三日月堀や十露盤堀が次々と発掘され、二の丸御殿が国重要文化財に指定されます。
- 1988年
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新幹線の掛川駅ができたことに伴い、市のシンボルマークとして再建熱が高まりました。再建のための寄付金が集まり、復元へと動き出します。
- 復元資料1:江戸時代の絵図(1644年、1851年)
- 復元資料2:現存する天守台の遺構
上記の資料をもとに、天守の復元計画が立てられました。
天守の復元- 安政地震によって倒壊した往時の「木造三重天守」を忠実に復元すること
- 天守台はかなり風化しているため、基礎工事は万全を期す
- 山内一豊時代の「野面積み石垣」「白漆喰層塗籠」、木造天守新建築の工法と職人技術の伝承
- 安政地震によって倒壊した天守の姿は正確にはわかっていないため、一豊が建てた高知城をモデルにした
- 天守台の基礎工事には、コンクリートを使用している
「復元」とは言っていますが、実際には「復興」に近い復元と揶揄されることもあります。
城主 城山塔子コピーのコピーだし、使用している部材を遠くから運んできたり、掛川は高知へ赴任する前なのに、掛川城は土佐漆喰を使用して再建しているからね。
それに、山内一豊が1603年に建てた高知城は1727の大火で焼失し、1749年に再建されたものというのも理由の一つ。
- 1993年
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天守閣が竣工。
- 1995年
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1876年に大火で消失してしまった掛川城大手門が復元されます。
掛川城へのアクセス
公共交通機関等を使用していく場合
JR掛川駅で下車。北に向かって徒歩約11分(約700m)の場所にあります。
天守を目指して歩けば行けます。
車で行く場合
周辺の有料駐車場をご利用ください。
掛川市街地にある城なので、駐車場は周辺に豊富に存在します。
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