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浜松城の歴史―江戸時代はエリートコース

浜松城は徳川家康が29歳から45歳までの17年間を過ごした城。

浜松の三方原台地の東南端にあり、天守曲輪から本丸、二の丸、三の丸と続く梯郭式の近世城郭です。

浜松城は徳川家康が天下を取っただけでなく、浜松城の城主となった者たちが後に老中などに出世していったため、「出世城」とも呼ばれ、親しまれています。

別称出世城
城地平山城
天守の種類鉄筋コンクリート製の模擬天守
天守の形式望楼型
天守の階数三層四階
城郭構成梯郭式(ただし家康時代は連郭式)
石垣野面積
最初の城の築城者徳川家康
最初の城の築城年代1570年頃
武将隊浜松徳川武将隊

天守は江戸時代初期にはすでに失われてしまってしまっており、本当の姿はどのようなものであったのか分かっていないため模擬天守。

後に徳川幕府を開くことになった家康が過ごした地として、浜松には家康にまつわる多くの伝承が残っています。

現在の浜松城は豊臣系大名の堀尾吉晴が改修した近世城郭。家康時代の城ではありません。遺構から堀の跡などが発見され、家康時代の城の姿が解明されつつあります。

家康時代の城は、湿地帯や丘陵などの自然地形を利用した堀と土塁からなる土の城

本記事では、浜松城の歴史を紹介します。

独断と偏見による浜松城の魅力

  • 野面積みの石垣がよく残っている
  • 徳川家康が壮年期を過ごした本拠地
  • 浜松市街地にあるため行きやすい
目次

浜松城の歴史

浜松は引馬宿の宿場町として発展しました。遠江の守護は今川、斯波、今川と変わり、宿市を狙って武将や大名が入り込み、城下町の色彩が強くなりました。

浜松城そのものは徳川家康が築城し、江戸時代になると城下町が拡大整備されていきます。

家康公が17年を過ごした浜松には、家康ゆかりの地や伝承が多く残っています。

『曳馬城』から『浜松城』へ

現在東照宮となっている場所に、浜松城の前身となる曳馬城がありました。

曳馬城がいつ頃建てられたのかは定かではありませんが、街道筋を守るために街道沿いに城が建てられることはよくあります。

曳馬城について詳しく知りたい方はこちら

「浜松」の名称は、古い荘園名に由来します。

1568年12月

27歳の家康が、徳川派の国衆が多い湖北ルートを通って遠江に入ります。

当初、磐田市見附にあった城之崎城を拠点にする予定でした。安田義定が国司を務めていましたが、家康が奪い、堅固な城へと改築を始めます。

城の崎城

城之崎城は現在の城山球場、城山中の一体にありましたが、面影は残っていません。

しかし城の崎城は用水が不足しており、信長に援軍を頼む際に天竜川が障害になってしまうことから、見附城の築城途中に浜松に移りました。

1569年

掛川城を囲んで今川氏真を降伏させ、家康が支配下に置き、遠江をほぼ平定。

曳馬城に住みながら新城(浜松城)の建設を開始。曳馬城を含めた城郭群へと姿を変えます。

所領が東に広がり、武田信玄の勢力圏と接することになったことから、岡崎城を息子の信康に譲り、本拠地を浜松城に移します。

1570年

浜松城に入城。この時、「曳馬城」から「浜松城」へ名前を改めました。

徳川家康公

姉川の戦いがあった年で、戦をしながらの引っ越し作業は大変だった。

どうして曳馬城から浜松城に改称したの?

徳川家康公

「馬を引く」ことは敗北を意味していて、縁起が悪いということで「浜松」にしたんじゃ

信長が「稲葉山城」を「岐阜城」に改名したのをみて、家康も真似をして「曳馬城」から「浜松城」に変えたともいわれています。

三方ヶ原の戦い

浜松城付近で行われた戦いは、家康の人生最大の敗北と言われているのが三方ヶ原の戦い。

武田信玄は西上作戦を開始し、二俣城を陥落させ、家康をおびき出すかのように三方原台地を通過します。

浜松城は難攻な堅牢の城と言われていたため、攻城戦ではなく野戦に誘い出したと考えられています。

三方ヶ原の戦いがどこで行われたのか、正確な場所は実は分かっていませんが、根洗町を中心とした地域ではないかと考えられています。

城主 城山塔子

浜松城からは10kmほどしか離れていません。目と鼻の先ぐらいのところまで武田軍が迫ってきたら、軍を出さざるをえないでしょう。

三方原の戦いにまつわる伝承は、地名にも残されているのが特徴です。

  • 小豆餅
  • 銭取
  • 布橋

浜松の小学校の学芸会や運動会では、三方ヶ原の戦いをイメージした演目が行われることがあります。

豊臣系大名の城へ

徳川家康が関東に移封されると、秀吉は家康を封じるため東海道に豊臣系大名を配置します。静岡県内では以下のような大名たちが配置されました。

豊臣系大名たちは家康の城を、豊臣大坂城と似た構成の近世城郭に改修していきます。

浜松市では、家康の時代と堀尾吉晴の時代の浜松城の違いをCGで再現し、わかりやすく動画で公開しています。

浜松市公式動画

一般にイメージされる城の姿に近づきました。

豊臣秀吉

瓦葺きの建物のある石垣づくりの城を急いで造れ

瓦職人の不足なのか、屋根瓦は上記の城でどれも同じものを使用しています。また、廃城になった近江の城で使用していた瓦を再利用もしています。しかし石垣に関しては、各領地内で使用できる石材を使用しています。

城主 城山塔子

瓦葺きで石垣の城を始めてみた当時の人は、かなり驚いたことでしょうね。これぞ権力の象徴!

江戸時代の浜松城主

浜松は石高5万石前後しかありません。

5万石しかありませんが、浜松城に赴任した城主がその後幕府の老中に出世していることが多いため、出世城とも呼ばれるようになりました。

浜松城主は老中として江戸にいることが多く、浜松にはほとんどいませんでした。

城主 城山塔子

江戸幕府のいわゆるエリートコース。石高は低くとも、大名たちから赴任地として人気があったのもうなずけます。

中でも特に有名なのが、水野忠邦。天保の改革を行った人物です。

水野忠邦

水野家の始祖は家康を生んだ於大の方の血筋。

浜松城に来る前は、豊かではあったが出世はできないとされた唐津城主。出世コースの浜松城の城主になるために、賄賂を送ったりなど、さまざまな手を尽くしました。

唐津藩は豊かではありましたが、浜松城主になるための賄賂資金のために領民が苦しめられ、かなり評判が悪かった模様。

浜松城主になるため、いろいろと画策をしました。

浜松城主になってからも、

  • 藩政の改悪
  • 領民からの御用金の召し上げ
  • 借金の踏み倒し

などを行ったため、浜松でも評判が悪い。

財政建て直しの名目に、領民は圧政に苦しみました。

エリートコースの浜松城主になったため、その後は大阪城代、京都所司代、老中へと昇進。

天保の改革を推進した人物でしたが、改革に失敗して減封されて閉居させられています。

安政の大地震(1854年)の被害

安政の大地震では、浜松城も城下も甚大な被害を受けました。

  • 埋門:土塀を含めて全壊
  • 菱櫓:壁が全部落ち、石垣のあちこちがはらむ
  • 富士見櫓:大破
  • 裏門:半壊
  • 二の丸:全壊

本丸と天守曲輪も石垣に多少の被害はありましたが、被害の多くは二の丸から南。その辺りは湿地帯で地盤が悪かったので、被害が集中しました。

明治時代以降の浜松城

廃城令により、明治5年に天守台が払い下げられます。

大正時代まで展望台と物見櫓がありました。

城主 城山塔子

私が子どもの頃、浜松城には動物園がありました。

著:城郭遺産による街づくり協議会, 著:小和田 哲男, 著:加藤 理文, 著:中井 均, 著:三浦 正幸, 著:宮下 英樹, 編集:城郭遺産による街づくり協議会
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浜松城へのアクセス方法

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