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七州城(挙母城)―矢作川の反乱で移転を繰り返した城

豊田市の中心街から歩いて20分ほどの高台にある城。

別称挙母城ころもじょう
城地平山城
天守なし
最初の城の築城者内藤政苗
最初の城の築上年1781年
3つある挙母城

豊田市には、挙母城と呼ばれる城跡は3つ

  • 金谷城
  • 桜城
  • 七州城
城主 城山塔子

本記事では、この中の七州城について紹介するよ

この城は、7つの国が眺望できることから「七州城」ともよばれ、桜城の建設が矢作川の氾濫により断念された後、店名5年(1785年)に完成を観たものです。
七州城は、内藤氏2万石の館として、2代学文以降6代86年続きましたが、明治4年(1871年)にすべての建物が取り壊され、現在は隅櫓の石垣が往時の面影を留めています。石垣は、上辺部東西10.8m、高さ6mあります。
現在の隅櫓は、章は53年に復元されました

豊田市教育委員会

独断と偏見による七州城の魅力

  • 豊田市の市街地から歩いて20分の行きやすさ
  • 駐車場も広くて駐めやすいので、車でも行きやすい

現在は隅櫓が一つ復元されているのみで、城跡は公園および豊田市美術館として利用されています。

目次

七州城の見どころ

城跡はほとんど残っていませんが、跡地には以下のような施設が建っています。

  • 挙母城隅櫓
  • 又日亭ゆうじつてい
  • 豊田市美術館

七州城の隅櫓

七州城で唯一ある城の建物が、1977年に復元された隅櫓です。

挙母城の石落とし

挙母城の隅櫓の石落とし

復元された建物というものは、外見だけは資料を元に近づけますが、必ずしもその機能性まで近づけるようなことはしません。

ですから、この石落としをよく見ると……

城主 城山塔子

穴がふさがっているんだけど……

江戸時代の面影を残すのは、この石垣のみ。

隅櫓の正面

中には入れません

挙母城の隅櫓

記念碑

隅櫓の隣には、記念碑が立っていました。

挙母と豊田

どうでもいい豆知識

その昔、豊田市は挙母町という小さな町でした。

そこにトヨタ自動車がやってきて、トヨタ自動車とともに町も多くくなり、人口が増え、「町」から「市」に変わりることになりました。

その時、どうせなら市の名称も変えてしまえと、トヨタ自動車にあやかって挙母市ではなく豊田市になりました。

又日亭

挙母城の又日亭
挙母城の又日亭

寺部領主渡邊家の城内にあった書院と茶席を移築したものです。

昭和52年に解体されそうになった時、市が譲り受け、復元建築したものです。

全国的にも希少な鎧台があります。

豊田市美術館

七州城のある城跡公園には、豊田市美術館が建っています。

城主 城山塔子

きれいな美術館です。

ついでに豊田市美術館に展示されている作品を鑑賞していくことをおすすめします。

美術館の最上階には見晴らしの良いレストランがあります。

城跡公園の最も高い場所こと、美術館横からは、豊田市を一望できます。

正面に見えるドームっぽい建物は、スカイホール豊田。

城主 城山塔子

30年前は、こんなにたくさんの建物なんてなかったんだけどな。豊田市は大きくなりました。

七州(三河国・尾張国・美濃国・信濃国・伊賀国・伊勢国・近江国)が見渡せるから七州城という別名があるのですが、七州を見渡すことは流石に無理だと思います。

七州城の歴史

七州城の歴史を紹介する前に、七州城を築城した内藤氏について紹介します。

七州城を建てた内藤氏は、もともとは近江国上坂郷の豪族でしたが、文安4年(1447)に三河国の岡崎市に移り住みました。

七州城を建てた内藤氏について

寛正4年(1463)1月に生まれた内藤義清は、若くして松平信忠・清康の家臣となり、岡崎5人衆と称されるようになり、上野城主となります。

天文11年(1542)に尾張の織田軍に攻め込まれましたが、義清の長男は勢いを盛り返して織田軍を敗退させます。その功績から清康から清の字を賜り、清長と称しました。

家康とともに多くの戦場へ

清長は二俣城の戦いで武功を上げ、その子家永も家康に仕えます。石川数正の下で活躍し、弓の達人だったと言われています。

二俣城の戦いについて、詳しくはこちら

その後も長篠の戦い、掛川城の戦い、諏訪原城の戦いに参戦。小田原合戦では豊臣秀吉に褒められるほどだったとか。

最後は鳥居元忠とともに、伏見城の戦いで自害。

徳川家康公

これぞ三河武士の鑑!内藤元忠・家永父子も三河武士よ!

この活躍のお陰で、内藤氏の子孫は各地で大名となりました。

  • 日向延岡
  • 陸奥湯長谷
  • 越後村上
  • 信濃高遠藩

三河挙母城は、内藤政晴が2万石の藩主になりました。

七州城の築城

挙母城の建設は新しく、宝暦6年(1756)4月のこと。

本丸、二の丸、三重天守を作る予定が暴風雨で矢作川が氾濫。工事中の城内も水没、城下町も水没。やむなく現在の高台に移転しました。

人夫役と重税で一揆が勃発

城を築くのは良いけれど、そのために人夫役に駆り出され、人夫に駆り出されて農作業もままならないとろろに築城のための重税が課されました

耐えかねた領民が一揆を起こし、岡崎城主にまで出向いて訴えるという大騒動にまで発展。結局一揆の要望の一部を受け入れ、一揆の首謀者を処罰することで、ようやく治まりました。

一揆の後、挙母城城主になったものは、どういうわけか跡取りができず、養子を迎えてあとを継がせる状態が続きます。

跡取りができないだなんて、きっと一揆で打ち首にされた者たちの呪いよ!

なんて囁かれていたのだとか。

三重の天守なんて、夢のまた夢に終わってしまったよ。これからは教育に力を入れよう。

当初の予定とは違う城になってしまいましたが、その後力を入れた藩校は大いに栄えました。

著:前川 浩一
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挙母城へのアクセス

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